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まとまらない自殺の話

日本では年間2万人が自殺する。30分に一人の計算。若者の自殺率は世界一。国が自殺と認めただけだから、本当はもっとずっといるとも聞くけどよくわからない。死亡原因としては、病気と老衰と事故の後、9番目に多い。人口の1.5%。

そして、自殺者の統計の人数を合計すると、戦後だけで150万人になった。第二次世界大戦の民間人の犠牲者の1.5倍。東日本大震災で亡くなった方が1万5千人。北朝鮮による拉致被害者が12人。数で比較するのは申し訳ないけれど外国や天災ではなく、国内で常に自ら命を断つ人々がいて、そのことに対する関心があまりに薄いことに驚く。心は全然平和じゃない。

お金と自殺の関係を考えたくて、経済と自殺者の統計データを重ね合わせてグラフを作った。人口10万人中の自殺者数とGDPの変動率。(GDPはグラフが重なるようにマイナス反転させて、バブル崩壊といわれる1990年を基準でみようと思って+20してある。)恣意的なのかもしれないけれど、はっきりした経済の数値と心理的影響が強い自殺との関係があるかどうかを知りたいのだからいいんじゃないかな。僕はお金で失われる命があると思う。これから少子高齢化の国が増えてきて、これまでの通りの社会では支えられないようになってくると、生きる希望を失う人が増えるかもしれない。だけど、日本は課題先進国だと思えば、解決先進国にもなれるという事だ。絶望しかないわけではないのだと自分を励ます。

「お金はお金よりも大事なものを守るためにある。」とコロコロコミックに書いてあった。あくまでもお金は道具だから、お金に使われたくないと思う。自分の行いの対価として認めてくれる人がいるという事は、そこに共通の常識がある。常識の少し先で明かりを照らす事はお金になるし感謝されやすいと思う。全く常識の外側の話は理解されづらくてお金にもなりにくいと思うけど、そこに意味がないわけじゃない。お金で命が失われて平気なんて、常識が狂っている。だから、僕は狂っていない。笑

自殺者の内訳を見ると、以前は増えていた経済・生活問題が減少傾向であることを知って、少しは落ち着く。だけど、健康問題が常に半数を占める。健康問題での自殺は、鬱や統合失調などの精神疾患で半数以上になる。なかなか理解されない地下空間があって、そこでなんとか生きている人がいる。知らず知らずのうちに幸福の床の下にいる。病は気からと言う。ストレスが原因で病気になる事はブラック企業をみればわかる。体の病気が原因で自殺されてしまう人も、病気そのものの苦しみ以外にも、心が死ぬほど苦しい気持ちになる社会なのではないかとさえ思ってしまう。素人が統計を持ち出しても見方さえおぼろげだし、僕にできる事は本当に限られている。それでもそういう人がいるのだと認知している事はできる。



警察庁「平成30年中における自殺の状況」
https://www.npa.go.jp/publications/statistics/safetylife/jisatsu.html

厚生労働省「自殺の状況をめぐる分析」
https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/16/dl/2-02.pdf


先日も同性婚を認めたら同性愛者の自殺が半数近く減ったというニュースを読んだ。愛情と自殺の関係が認められてきている。経済状況と心と体の健康が結びついている事だって関係している問題だと思うし、別々にできることだと思う。ドイツにいたころ、インド人だったような気がするけど「日本では就職しないと結婚できないって本当?」と聞かれた。一瞬何言ってるのかわからなかった。だって当たり前だと思っていたから。だけど、そうじゃない世界がある。いい悪いではなくて、気づかずに結びついているのではないかと思う。お金がないと、心か体を壊すまで働き続けなければいけない。不健康だと働き始めることさえできないのに、生活保護の話をすると「は?非国民なの?」って顔をされることの方が多い。これは異常なことだと思うけど、僕が狂っているのだろう。笑

他の人に自殺の話なんてネガティブなことを言うと、聞いてもらえない事はしょっちゅう。引っ張られる感じがして怖いのかもしれない。蓋をされる。見てはもらえないけど、困っている人がいる。どうしたらいいのか困っていた。当の本人にも、あ、こうすればいいのになと思うこともあるけど、それを直接言える状態でない場合もある。まず落ち着く事が難しいのは、少し吐き出すものがあるんじゃないかな。僕もその一環のようにこうして書いている。

僕が坂口恭平さんがすごいと思ったのは、それをたくさんの人と話した上で、死にたいというのは「言葉にならないんじゃない?」と言う言葉にしてくれた事だ。統一できない。まとまらない。心理学とか歴史のなかでは解明されているのかもしれないけど、自分で実践して、身近に感じられるように書いてある。全部が全部すごいと持ち上げるつもりはないけど、それもまたまとまらなくていい。

まとまらないまま、いのちと向き合ってみようと思う。

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まとまらない人を読んだ人④ シェアハウスとアキンド君

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僕は今、シェアハウスを作っている。名前は「ロクの家」。築50年の元旅館の建物をDIYで直しているのだけど、雨漏りが酷くて、白蟻に喰われてて、いろんな所がボロボロ。半年かかっても終ってない。嫌になったり諦めかけたり長く休んだりしながら、なんとかかんとか進んでいる。

台風では外壁が落っこちたけど、僕は激安で漆喰を作る方法を編み出してあるので、漆喰自体の金額は1300円くらいで済んだ。DIYをする人みんなに知って欲しいくらい。作り方はブログで公開しているし(こちら)、動画を作ってYoutubeにもアップしようと思っている。怪しいし慣れない事は怖いと思うので、気になる人は見にきて欲しい。一応、この方法で10年は持っているので大丈夫だと思うけどどうだかは知らない。日本はこれからどんどん空き家が増える。自分で見捨てられた空き家を直したら、家を買うお金の分働かなくて良くなる。

そして、このシェアハウスには共同アトリエと発表スペースがついている。20畳の大広間があるので、そこを共同アトリエにしようと思う。あとは展示スペースであり、上映スペースであり、色々実験的に使える一部屋を作ろうと思っている。8畳間くらいしか取れなそうだけど、天井から床まで真っ黒で、入り口は茶室のにじり口みたいなものも作ろうと考えている。体を使って入って、作品と向き合い、体を使って出る。向こう側の世界は帰ってくる所作も大事なのかなと、内田樹さんの本で、能のシテという役の話を読んでよりそう思った。思考の向こう側に触れて帰ってくる感じとも言えるかな。炬燵の中のヒーターの灯りみたいな感じかな。開放的な真っ白空間とか、全然違う風になるかもしれないけど。そして、そこにはリビングがあり、お風呂やトイレがあり、暮らしがある。美術館併設のカフェの超身近版。生活している人が優先だから、気に入らなければ悪いけど出て行ってもらう。笑。

ロクの家の「ロク」は、大家さんが飼っていた亡くなってしまった犬の名前。うちの愛犬とも仲が良かった黒い犬で、藪の中を走り回るのが大好きだった。「ロクの家」には、人間以外のものや死後の世界との繋がりという意味がある。住む人が考えなくても、名前が引っ張ってくれるんじゃないかな。死後世界や来世という発想は自殺に関係があるというから大外れではないと思う。困った時のセーフティーネット、安全地帯でもある。

この家の家賃は全部で3万円。全部で7部屋あって、1部屋は展示場、1部屋は倉庫兼遊びに来た人が泊まれるところ。5人住めるようになればいい。僕は不動産を直して儲ける商売をしたいとは思わない。お客様とお店の関係ではできない時空間に興味がある。赤字にならないようにして水道光熱費を込みにして、家賃は2万円あれば余裕で住めると思う。だけど、僕は飽きるまで家賃をタダでやってみたい。水道光熱費を貰うだけでできないか考えている。できるかわからないけど興味がある。

ちなみに僕はこれから社会的にはニートになる予定。会社を辞めるけど、いわゆる労働市場的に働く気はない。そして、自分の体に良いことをする。お金にはなるんだろうけど、地球は誰のものでもないと思うと、不動産のシステムがちゃんと理解できない。だから僕にできる範囲(&飽きない範囲)でやってみたい。

坂口恭平さんと同じく、僕にとっても自殺は大きなテーマだけど、僕は電話が苦手だ。直接人と会って話したい。体を持って生きている感じが欲しいのかなぁ。熊本や尾道では当たり前にできても、千葉の銚子では、散歩をしながら抽象的な事柄について話す機会はとてもとても限られている。アトリエや展示スペースがあるからと言って、アーティスト専用なんて言う気は全然ない。それはなんだか気持ち悪い。もやもやしてて何かを作りたい。作ることで死なないで済む人が生きられる場所になったらいいし、作らなくても興味がある人は歓迎。興味がない人は来ないと思う。発表場所は家の中にある。詩でも絵でも、映像でも、ダンスでも、発表し放題。音楽は近所に迷惑にならない範囲でできないかと考えている。作る事見せることで人が元気になるなら、それはある意味学校や病院のようだとも思う。

銚子は、財政破綻寸前の港町だ。文化や歴史、街並みを大事にしようなんて考えている人は少ない。お金と一瞬の盛り上がりが大事にされるのは、漁業の歴史の力だと思う。僕は別の街に行ったほうが楽だったりするけど、このどうしようもない街の気候、風、食べ物、そして人が好きだったりする。だめならだめでもいい。謎の場所を作ってみようと思う。僕も人に助けてもらって生かしてもらってきた。だから、このくらいやっても普通なのだけど、どうやってお金にしたらいいのかわからない。展示で売れたら何%とかにすればいいのかな。それは、これから考える。アキンド君、助けてー。

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まとまらない人を読んだ人③ いのっちの絵とバトン

僕は携帯電話を持っていない。電話はものすごく緊張する。着信履歴があったら、その人を嫌いになりそうだから持たない。

坂口恭平さんは自分の電話番号を公開して、「いのっちの電話」という、自殺したくなった人がいつでも電話をかけられる活動をしている。僕はそこまでオープンな人ではないけど、自殺の問題は本当に気になって気になって仕方がない。年間2万人。30分に1人。若者の自殺率は世界一位。積極的に死にたいと思わなくても、死にたいと思う方向に心を動かされるのだと思う。個人では太刀打ちできないような社会の空気がある。

僕は、その空気をなるべく和らげる事に気を使ってみたり、無意識の衝突の問題を考えてみたりする。それを絵に描いたりする。誰にも気づかれなくてもいいかと思っていたし、言葉にもまとまらなかった。

この2年くらいは、絵が植物のように成長しない事で悩んでいた。絵にするとそこだけ時間が止まってしまうような気がして、それそのものは成長しない。やがて忘れられてしまうのが怖かった。だから、どうせ忘れられるものだからとすぐに絵も消していた。

でも、こうやって描いて動けるのは、先人たちの絵や言葉が残っていたからだし、「まとまらない人」という可能性を感じたからだ。うさんくさいけど、小綺麗にまとまるよりは生々しくていいかもしれない。

絵画自体でなくても何かが、植物のように成長しているのだと思う。絵は種であればいいのかな。神秘的な芸術家になろうとしないで、理解されないならされないでも、売れなくても発信はできる。自分で根っこを出そうとすればいい。そうして、いのちが繋がると思える事が生きる力になる。

これは、絵や言葉だけに限らない。音楽や演劇、ダンス、料理、散歩、学校、医療、子育て、呼吸、睡眠、なんでもいい。人は何かしらの形でタネのようなものを渡す事ができる。それを言葉にしたり演奏したり、どういう形であっても人にバトンする事で、その人の中で成長すると思う。本の読み聞かせもそう。子供は登場人物の名前さえ理解していなくても、もっと読んで欲しいという。愛情を聞いている、感じているのかと思う。大きくなったときに、その種が成長して思い出さないまでも力になっているかもしれない。

よくアーティストが「インスピレーションが降ってくる」というけれど、降ってきているのは作品のためだけではないと思う。いつでも違う形で降ってきている。だから、言葉にできなかったり、必要なバトンを渡せない時は苦しくなる。答えは風の中かもしれないけれど、流れに逆らわずないバトンのあり方を感じていたい。

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まとまらない人を読んだ人②

鬱になると、なぜ生きているのかをずっと考える。鬱を抜けると、そんなこと考えない。「だって生きているから」と思うだけになる。そこには幸福の床があって、決して抜け落ちない気持ちになる。操状態の時は空に浮かんでいるように無敵の気持ちになる。地上にいた事も忘れるし、ましてや地下空間があるなんて気にしなければいいのだと思う。空を飛んで調子に乗って帰ってくると、地面は抜け落ちていて、下に落っこちる。そういう三つの層がある感じ。

僕は、何かを作るための心の状態を整える事にエネルギーを注いできた。1週間後の予定が気になって集中できないこともよくある。でも、散歩で足を動かすように、ただただ手を動かしてみれば、何かが出てくるのだろうか。いくらでも出てくるような感覚になるし、とりあえず少しスッキリするけど、後で不毛な気分と向き合う事になる。

消さないやることを決めて、日課を作ってみようと思う。散歩とお茶と絵、あと時々の建築作業はちょうどいい。その間は手を動かす。頭が働かないくらいに。眠いけど寝れないみたいに。鬱だし不眠症なので、それならできる。

小さい頃から眠るのが苦手だった。さらに僕は、むずむず脚症候群と言って、夜になると足が気持ち悪い症状と共に10年以上生きている。眠れない状態のプロだ。睡眠導入剤を飲んでも、頭は寝てるのに、足が気持ちが悪くて眠れない。何かをする気にもなれないで、ぐずぐずYoutubeを見るばかり。だから、寝る前の思考が鈍った状態なら得意中の得意。その状態で作ることをしないでいた。夜は書き物に向かないと思っていた。それは統一されないから。統一しなくていいなら最の高だ。

絵や言葉の塊は、パズルみたいにイメージできる。不思議なことだけど、人の頭の混乱が手をかざすとわかったりする。静電気のようにモヤモヤした塊の動き方がある。気やシャーマンのような世界の人との出会いが多くて、教えてもらったり、本も読んだ。仕事にしようと思ったけど、一人ひとりとか、気功のような形ではなくて、絵にしたら僕が死んでも残ると思う。死んでも一人一人に直接会える。だけど、お金にする方法が苦手。そこでも一つの壁がある。でも、もしかしたらお金だって計算ではなくて感覚の中にあるのかもしれない。

藤原正彦さんという数学者の方は、数学は「情緒」でするものだという。数学は美しいものだから、美しさが分からないと一定以上は伸びないのだとか。だから、子供に算数を教える前に、「花が綺麗だね」とか「今日は満月だね」とか、そう言うことを日常的に話したほうがいいんじゃないですかって。

お金の計算は習ったけれど、全く違った捉え方は習わない。個々人のポリシーや粋な気概のような、詩のようなものとして捉える経験のことだ。人におごる時の作法というか、奢ってもらうあり方。全然できないけど。貯めるのではなくて、使い方の美しさ。計算させようとする勢いがとても強い。お金が減るとどんどん心配になるけど、数学や詩のような美しさで捉える事はできないかな。そうやってモヤモヤしたものとして捉え直せば、案外心配することはないのかもしれない。本当かなぁ。笑

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まとまらない人を読んだ人

坂口恭平さんの「まとまらない人」を読んだ。
「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る」
というナポレオンの言葉を思い出した。
ナポレオンは自分が賢人であると話をしていたようだけど、僕はずっと狂人の語る未来が気になっている。

ガリレオ・ガリレイの地動説だって、初めは狂っていると思われた。
常識の先の話は、信用もされないし、お金にもならない。
ビートたけしさんは、常識の半歩先が丁度いいと言っていた。
テレビで活躍するには、その通りなのだと思う。
だけど、言葉になる前の言葉や、体から出てくる絵があって、それを必要としている人がいる。
体の反応にとって、それは生きる力になる。
世の中が狂っているときに、狂っていると言われる人は、正常かもしれない。

僕は鬱になりやすい。
無敵の躁状態になる時もあるけど、落差が怖いので鬱と同じくらい気をつけている。
自殺もよく考えた。(考えなくてもスーッと引き込まれそうになる。)
最近は大丈夫な時間が増えたけど、鬱の時間は突然やってくる。
だから、人と約束するとその時間に向けて、ずっと気になって仕方がない。
すごくストレスになので、出来るだけ約束しない。
他の人が、ササッと連絡を取り合って約束通りに行動できる事が信じられない。

絵を描く事が丁度良い。
かといって、アーティストしているかといえば、現代アートになかなか馴染めいない。
どうにもコンセプトが書けない。
一貫して絵に描いているのは「生きる事」なのだけど、言葉を尽くして説明しようとするほどずれていく。
文章の塊はパズルのように組めるけど、テーマが定まらないと止まる。
最近、脳ではなくてお腹の思考。体の言葉。といえば少し落ち着く事に気がついた。
バラバラに言いたい事を言って、作風を定めなくていいならできる。

いのっちの電話をかける人も、定まった自分を求められる事への苦しみなのではないかと勝手に想像する。
プリズムの光の反射の一面だけを求められる感じ。
社会は主にその一面だけを集める事で回っているのかもしれないけど、人間の心は山の天気のように移り変わるのが自然だと思う。
プリズムは見えなくて、たくさんの面から反射された光から本体を想像するしかないと思う。
アキレスと亀みたいに、いつまで経っても本体は捕まえられないかもしれない。
だけど、少しでも自分の中の光を追いかける事で、生きやすくなるかもしれない。
それが何かをつくる事なんだと思う。

僕は自分の作ったものや書いたものを消してきた。
Facebook3行の投稿に丸一日かけて、結局投稿せずに消す事を繰り返してきた。
絵も消しまくっている。
詩のようなものを消すのはもっと早い。
すぐに過去の自分が恥ずかしくなるからだ。
それは統一されていないことからくる。
自分として統一しなくていいんだと思えば、消さなくていい。
まずは消さない事からやってみたい。
そして、食事も睡眠もリズムがないけど、何か日課を作ってみようと思う。

Wikipediaに米国自殺学会のエドウィン・S・シュナイドマンという人のこんな言葉が書かれていた。
「魂と来世という思想を捨て去ることができたとき、その時初めて、人間にとって自殺が可能になった」

いのちのおかわりはない。
あの世に行けばもらえるかもしれないけど、この世にはない。
僕は、魂と来世については、いわゆる宗教的な思想である必要はないと思う。
生きた痕跡を残そうとすること。
形がなくてもいい。
場所は選ぶけど、叫んだり、走ったりだっていいんじゃないかな。
面倒臭いけど、掃除するとすごくスッキリするあの感じ。
自分で思った事を行動に移す。それだけ。
ただそれだけなんだけど、命に関わる大事な事だと思う。
体が思っていることは、今までの自分では考えられない事かもしれない。
行動に移す事で人に迷惑がかかるかもしれなければ、紙に書いたりして想像できる。
魂や来世を考えなくても、死ぬ気が減ればそれでいい。

こうやって自分で書いていて、全部嘘かもしれないとも思うし、本の内容をなぞっただけのような気もする。
それでも、これは僕の分裂している一面を残してみる試み。
プリズムの反射の一つ。
「振り向くな一歩前へ」

まとまらない人を読んでみた人は、狂人の語る未来がますます気になるようになった。

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沖縄に手紙を送りませんか?

11月3日より、かもめホテルで首里城の火災に対するご寄付の受付を始めます。

木版画ポストカード「すいぐすくのうちなーせーく(首里城の沖縄大工)」を100点制作しました。
一枚一枚、因州和紙に刷りました。手がビリビリです。
1031円を超えてご寄付を頂いた方にお渡しします。
お金は全額を寄付させて頂きます。

この活動をするきっかけとなった、首里城の修復に携わった大工さんとの物語を書きます。



2011年冬。僕は沖縄にいた。
首里城の修復にも携わった、うちなーせーく(沖縄大工)の親泊(おやどまり)次郎さんに会うためだ。

当時の僕は、行き詰まった絵を辞め、職業訓練校で建築を勉強し、伝統木造建築の大工になりたいと思っていた。宮大工に憧れつつ、沖縄大工にも憧れた。素朴な美しい木造赤瓦住宅が、あの猛烈な台風で吹き飛ばされないで残っている。一体どうなっているんだろう。そんな事を思ううち、次第に気になって仕方がなくなり、インターネットで見かけた親泊次郎さんに電話した。すると、ぜひお会いしましょうと快諾を頂き、訓練校の冬休みに沖縄に飛んだ。

約束の時間は夕方。宿に荷物を置き、沖縄での時間を無駄にしたくない僕は、連絡していた他の大工さんの現場や首里城を見て周った。木造建築といえど、色々な建て方がある。木材同士をガッチリと組み上げる方法もあれば、ボルトを使って穴をシリコンで埋める方法もある。パッと見は伝統的な赤瓦の家に見えるけれど、先に見た大工さんはボルトとシリコンをたくさん使っていた。もし技術があっても、予算や納期との兼ね合いで手の込んだ建築は難しいのが現実だと思う。そして、さすがの首里城はガッチリとした木組みだった。浅はかな建築の目線で見回し、こりゃ僕の知識では測れないな。と思って後にした。

夕方、次郎さんの奥さんが車で迎えに来てくれた。到着したのは、ご自身で建てられた木造3階立ての自宅。トートーメ(お仏壇)にご挨拶し、家の中を案内していただく。天井板がない部分やあちこちの仕上げをしないままの部分がある。県の職員さんも見学に来られるから、少しでも技術を伝えるためにそうしてあるのだとか。千葉に帰るまでご自宅に泊めて頂く事になり、巨大パズルのような図面を見ながら、床下や天井に潜って写真を撮ったり、作業場を見せて頂いたりした。建築の話が大好きで、冗談を交えながら笑う次郎さんと、パワフルで豪快な奥さんに囲まれて、1週間弱の滞在はあっという間に過ぎた。

技術的な事で僕が驚いた事を少し書くと…。①床組の大引根太(床は普通、太い木の上に細い木が乗って、床板を貼る。だけど、ここでは太い木の上にさらに太い木が組まれていた。)②構造としての鴨居(扉の上の部分の木材を柱に突き刺して、建物の骨組みにする。首里城も同じだった。)③貫の蟻加工と楔(壁の裏側で柱と柱を繋ぐ木が、一つ一つ手間暇かけてガッチリ組まれていた。)

その後の僕は、内地の大工に弟子入りして、あっという間に辞めてしまった。一度ご挨拶に伺ったきりお会いしていないけれど、沖縄大工は今だに憧れの存在だ。伝統木造建築は、計算や理論だけでなく、天然の木を扱う人々にしか見えない世界があると思う。僕は、大学の先生の理論の下でめちゃめちゃに振り回されている現場にいた事もある。先人達の声に耳を傾け、予算を当てがい、研究はされているだろうか。昔は家が基礎に固定されていないから、地震が来ても家自体が動いて崩れる事を防いだという。建築基準法に、大工の棟梁の声は届いているのだろうか。

根性無しのないちゃーがうちなーのまぶやー(内地人が沖縄人の魂)の何がわかるのかと言われたら、僕に言葉はない。だけど、次郎さんが見ず知らずの僕を迎え入れてくれた時に、言っていた事がある。今回の首里城焼失を受けて、その言葉を思い出す。

「石にかじりついてでも技術を伝えたい」

この言葉が響く事を願う。

>>>こちらに記事があります。
【職人インタビュー】大工棟梁 親泊次郎氏(77歳)

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即位礼 シャーマニズムと 短パン小僧

 

即位礼の儀が行われたときに、ちょうど良いタイミングで雨が上がって虹が出たという。
あらゆる問題は置いておいて、僕が興味を惹かれた事を書きます。

僕は虹の件で、天皇陛下万歳とは思わない。
集合意識の成果だと考えるからだ。
たくさんの人の意識を集めれば、人間は天気さえ変えることができる。という、シャーマニズムの現象だと思う。
僕はそこを信じたい。ロマンがあるから。

僕は天皇制の下で、ある程度の意識を集める事には成功しているのではないかと考える。
即位礼に向けられた意識が、地震や台風、戦争を止める方に向いたらどれほど素晴らしいかと思う。
だけど、神風のような例は海外でもあったようなので、そのような力があったとしても皇室の力が唯一固有であるとは思わない。
また僕は、麻原彰晃から、人間を操る事や超能力があったとしても人間性とは別だと学んだ。
だから、人の特別な力を崇拝しない。
ただただ平和的方向に活用して頂きたいと思う。

水に言葉をかけると結晶の形が変わるという話は、言霊の集合意識ではないだろうか。
水の結晶の話を気安く馬鹿にしておいて、即位礼の虹に喜ぶ方がいたら、僕はへぇ。と思う。
熱心なキリスト教徒には、キリストが十字架に磔にされたときの傷跡が発現するという、聖痕の話も面白い。
不眠症の僕は、言霊で眠るという研究をはじめたところだけど、少し良いように思う。
すべて気のせいかも知れないけど、気のせいでいい。

台風が来る前にネットで「台風が逸れたと想像しよう!」と呼びかけていた方がおられて、素晴らしいと思った。
物理的に万全に備える一方で、もうすでに大丈夫であるという安心の想像を心の片隅だけでもする事は有益だと思う。
引き寄せの法則だったりはこういう感じかな、と思う。

集合意識の戦争利用の可能性もあるだろう。
人数では中国やインドが圧勝だろうけど、いやいややらされては発現しないかもしれない。
もしも宗教的熱狂を意識的に操ったとしても、悪意の下で行えば自分に返ってきて自滅すると思う。
勝手にすればいい。
そう考えれば、この世は悪いところではないのかと思う。
ビートルズのImagineの世界。

そして、僕がずっと気になっている問題がある。
短パン小僧だ。
クラスに一人いる、冬でも半袖半ズボンの子供。
彼らの存在がとても気になる。

スポーツなどで体が暖かい子もいるけれど、そうでないのに寒くない子がいる。
無意識が集合して、寒く感じなくなるのではないだろうか。
成長すると寒く感じるようになるのは、集団がばらけて別の誰かに力が移動しているかもしれない。

大学で出会った寒くない友達は、痩せていて運動をしているわけでもない。
周りに気持ち悪がられるから、長袖を着ていると言っていた。
このような不思議な存在が、どのくらいいるのか知りたい。

即位礼の日の虹を知るために、短パン小僧の研究を誰かにして欲しい。
僕はしない。笑

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ちょうしフラット通信


恥ずかしくて直視できなかったのですが、6月ごろに取材して頂きました。

>>> 名もない活動ができる場所を作りたい画家・「かもめホテル」オーナーの宮内博史さん

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秋、台風一家と心の家族(概念と丹田の話)

ドローイング

油彩

歌のある家
戦う店主
Mr.BBQ
自画像
自画像

台風一家の一過を受けて、ありがたい事に心配のご連絡を頂く。
血の繋がった関係ではないけれど、一期一会の中に心の家族がいるように思う。

独り言のような散らかった文章ですが、最近の制作で思っていた事を書きました。
今作業しているシェアハウスが、こんなことを話せるようになったら嬉しい。
今回書いたのは概念と丹田の話だけど、テーマは色々。
心の家族なんて言っても、当然良い事ばかりではないだろうけど、それは血の繋がった家族も同じ。
人間だもの。

概念と丹田の話

 

僕は、20年以上和楽器の演奏をしている。
地元のお囃子以外にも、機会があっていくつかの地域の伝統芸能を学んだ。
今演奏している曲は、無数の無名の人々の手を経て、無駄を省き、洗練され、味わい深い面白さが残ったもの。
何百年と続いていきた曲を通して、型を覚える。
ある時友達と「そこに何かしらの核があるように思う」という話をした。

伝統芸能の保存会は、特にそのままの型を伝える事を重視する。
一方、いつか昔の誰かが創作したものなのだから、自分たちも創作できるはずだとも思う。
(僕は整った軍隊のような和太鼓の舞台に興味はなくて、バンドや舞台芸術で見える個人が集合した感覚に興味がある。)
宮大工も伝統は創作だと言う。
常に伝統と創作の間で揺らぎ、そのバランスが調和した中に核があるように思う。

老人ホームに演奏に行ったとき、車椅子の上から涙を流しながら歌い、手だけの盆踊りを踊られた方もいた。
見ず知らずの方と僕を繋げてくれる音楽のあり方に感動した。
演奏を見た方からはよく、和太鼓はお腹に響くと言われる。

西洋のダンスの重低音も、お腹に響く。
日本ではあまり馴染みがないものだけれど、何か知っているものを目指しているような気がして観察した。
瞑想は動きのないダンスで、ダンスは動きのある瞑想だと思うようになった。
ダンスの機会があったので、試しに目を閉じて深呼吸しながらダラダラやってみたら、瞑想的で結構よかった。
手段は違うけれど、そこに同質の核があるのではないだろうか。
禅が流行っている事と、禅的な文化に慣れすぎてダンスができない日本人を思う。
この動と静のあり方は、お互いに補完し合う文化なのではないかと勝手に思ったりしている。

現代アートは、コンセプト(概念)のアートだという。
概念を突き詰めれば、デジタルデータや文章で済むので、実態がある必要はないのではないかと思う。
論文や学会を丸ごと、コンセプトアートと言えばいいと乱暴な気持ちになる。
脳の活動と五感で体験する事、そのバランスの塩梅なのだろうか。
政治的な要素の強い作品の発表には、とても覚悟がいると思う。
すごいなと思う反面、僕は今だに距離感がつかめない。

僕はなぜ絵を描いているのかとよく考える。
絵画はすごく古いコミュニケーションの手段で、もう十分やり尽くされたのではないかと思うのに、それでも描きたいと思う。
なぜかと考えると混乱し、描く気を失い、生きる感覚を希薄にする。
脳に向かっている時は、そうなるのが自然だと思うようにして気をつける。
脳の概念からは、身体感覚としての核のようなものに出会う事は期待できないのかもしれない。
世の中の流行に遅れているみたいだけど、しょうがない。
それとも、概念的に抽出できる可能性があるのだろうか。

先日、大学の友達(僕は勝手にそう思っています)の記事を読んだ。
オリジナルの手話を使う方で、身体感覚として丹田を心と表現するおばあさんとの話に驚いた。
(多様な表現と文化が広がる「手話言語」の世界:当事者が語る、英語との共通点とは?
ドイツで絵を展示するときに、Bauch Gefühl(お腹の感覚)で配置を決めようと言われたことを思い出し、面白いテーマだと思った。
お腹に響く事は、心に響くのかもしれない。

僕が触れたのは、日本の特定の地域の核かもしれない。
極めたかどうかはしらないけれど、一生懸命やった。
宮本武蔵曰く、「一つの道を極めればすべての道に通じる」と言う。
肚の心の文化の核にほんの少しだけ近く事ができたのかもしれない。

脳でもなく、心臓でもなく、お腹。
体感として心の肚に響くもののあり方とはなんぞや・・・。
その手段として、絵画は生きるのだろうか。
思考では到達できないかもしれないけれど、集中には役立つと思う。

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漫画「空き家をシェアハウスにDIY」

(2020年6月:シェアハウスではなくなってしまいました。)

シェアハウス「ロクの家」を作る実話漫画です。
実際の作業が大変なので、とりあえずここまでで公開します。

今後、日本の空き家率は30〜40%になると言われています。
大手ハウスメーカーで2000万円で新築の家を買ったとして、半分は営業費用と聞いた事があります。
昔ながらの大工さんは、柱のホゾが桁にしっかり入っていない家が増えたと言っていました。
日本の家の寿命は30年と非常に短く、不景気で会社がどうなるかわからない中20年ローンを組むのはなかなかのリスクです。

お金のあり方や働き方はこのままでいいのだろうかと思います。
ほんの少し足を止めて、家について考えるだけで人生は大きく変わるんじゃないかと。
少しだけ建築を勉強したのだから、DIYの事を書いたら興味持ってくれる人いるんじゃないかと。
そんな偉そうなことを言えるほど漫画にならなかったけど、実際の作業は亀の速度で進んでいます。