秋、台風一家と心の家族(概念と丹田の話)

ドローイング

油彩

歌のある家
戦う店主
Mr.BBQ
自画像
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台風一家の一過を受けて、ありがたい事に心配のご連絡を頂く。
血の繋がった関係ではないけれど、一期一会の中に心の家族がいるように思う。

独り言のような散らかった文章ですが、最近の制作で思っていた事を書きました。
今作業しているシェアハウスが、こんなことを話せるようになったら嬉しい。
今回書いたのは概念と丹田の話だけど、テーマは色々。
心の家族なんて言っても、当然良い事ばかりではないだろうけど、それは血の繋がった家族も同じ。
人間だもの。

概念と丹田の話

 

僕は、20年以上和楽器の演奏をしている。
地元のお囃子以外にも、機会があっていくつかの地域の伝統芸能を学んだ。
今演奏している曲は、無数の無名の人々の手を経て、無駄を省き、洗練され、味わい深い面白さが残ったもの。
何百年と続いていきた曲を通して、型を覚える。
ある時友達と「そこに何かしらの核があるように思う」という話をした。

伝統芸能の保存会は、特にそのままの型を伝える事を重視する。
一方、いつか昔の誰かが創作したものなのだから、自分たちも創作できるはずだとも思う。
(僕は整った軍隊のような和太鼓の舞台に興味はなくて、バンドや舞台芸術で見える個人が集合した感覚に興味がある。)
宮大工も伝統は創作だと言う。
常に伝統と創作の間で揺らぎ、そのバランスが調和した中に核があるように思う。

老人ホームに演奏に行ったとき、車椅子の上から涙を流しながら歌い、手だけの盆踊りを踊られた方もいた。
見ず知らずの方と僕を繋げてくれる音楽のあり方に感動した。
演奏を見た方からはよく、和太鼓はお腹に響くと言われる。

西洋のダンスの重低音も、お腹に響く。
日本ではあまり馴染みがないものだけれど、何か知っているものを目指しているような気がして観察した。
瞑想は動きのないダンスで、ダンスは動きのある瞑想だと思うようになった。
ダンスの機会があったので、試しに目を閉じて深呼吸しながらダラダラやってみたら、瞑想的で結構よかった。
手段は違うけれど、そこに同質の核があるのではないだろうか。
禅が流行っている事と、禅的な文化に慣れすぎてダンスができない日本人を思う。
この動と静のあり方は、お互いに補完し合う文化なのではないかと勝手に思ったりしている。

現代アートは、コンセプト(概念)のアートだという。
概念を突き詰めれば、デジタルデータや文章で済むので、実態がある必要はないのではないかと思う。
論文や学会を丸ごと、コンセプトアートと言えばいいと乱暴な気持ちになる。
脳の活動と五感で体験する事、そのバランスの塩梅なのだろうか。
政治的な要素の強い作品の発表には、とても覚悟がいると思う。
すごいなと思う反面、僕は今だに距離感がつかめない。

僕はなぜ絵を描いているのかとよく考える。
絵画はすごく古いコミュニケーションの手段で、もう十分やり尽くされたのではないかと思うのに、それでも描きたいと思う。
なぜかと考えると混乱し、描く気を失い、生きる感覚を希薄にする。
脳に向かっている時は、そうなるのが自然だと思うようにして気をつける。
脳の概念からは、身体感覚としての核のようなものに出会う事は期待できないのかもしれない。
世の中の流行に遅れているみたいだけど、しょうがない。
それとも、概念的に抽出できる可能性があるのだろうか。

先日、大学の友達(僕は勝手にそう思っています)の記事を読んだ。
オリジナルの手話を使う方で、身体感覚として丹田を心と表現するおばあさんとの話に驚いた。
(多様な表現と文化が広がる「手話言語」の世界:当事者が語る、英語との共通点とは?
ドイツで絵を展示するときに、Bauch Gefühl(お腹の感覚)で配置を決めようと言われたことを思い出し、面白いテーマだと思った。
お腹に響く事は、心に響くのかもしれない。

僕が触れたのは、日本の特定の地域の核かもしれない。
極めたかどうかはしらないけれど、一生懸命やった。
宮本武蔵曰く、「一つの道を極めればすべての道に通じる」と言う。
肚の心の文化の核にほんの少しだけ近く事ができたのかもしれない。

脳でもなく、心臓でもなく、お腹。
体感として心の肚に響くもののあり方とはなんぞや・・・。
その手段として、絵画は生きるのだろうか。
思考では到達できないかもしれないけれど、集中には役立つと思う。