芸術の世界では、これまで「絵画とは何か?」という議論が積み重ねられ、理論的にはもう語り尽くされてしまった(=絵画の終焉)と言われることがあります。しかし、私の出発点は理論ではなく、生きている実感にあります。
1. 頭で考えるより先に、身体が動く
私は普段から「こういうコンセプトで描こう」と最初から決めるわけではありません。 人にはそれぞれ、物事の感じ方や集中力の違い、その日の疲れ、身体が刻むリズムなどがあります(これを「神経多様性」と呼んだりします)。
「何を描けばいいかわからない」と迷うとき、私は「何かを描きたい!」というその衝動そのものを絵にしようとします。頭で考えるよりも先に筆が動く。そんな「理屈が追いつかない瞬間」にこそ、感覚過敏な私にとってのリアリティがあります。
2. 誰かの表現に「伴走」する
この身体で感じるという感覚は、私一人の制作だけでなくギャラリーの活動にも繋がっています。 例えば私は、美術の専門教育を受けていない一人の友人に対して、10年以上にわたって作ったものを人に見せるように誘い続けました。
彼女のように、既存の美術のルールの外側で自由に表現している人の作品は、か細く見過ごされがちです。 私は、芸術の理論ではなく、ただ自分がいいと思うという視点で、彼女の背中を押し続けました。単に手伝うのではなく、彼女の声を奪わないように気をつけながら、その表現が社会に届くための道筋を作ろうとしました。
3. 芸術が「当たり前」を揺さぶる
彼女が初めての展覧会を開いてから5年。今では彼女自身が、他の誰かの背中を押しています。芸術は日常の価値観を揺さぶって、同じ場所にいても違うことを感じるようになったりします。こうして、地域の人たちの「世界の見え方」を少しずつ変えていくかもしれません。
私の取り組みは、芸術理論の枠組みからは少しはみ出していると思います。でも、理屈では説明できない「生身の人間」や「個別の人生」から生まれる表現は、どんなに時代が変わっても消えることはありません。私は「絵画の脈動」を信じ、声なき声が聞き届けられやすくなることを願っています。
補足
自分自身のごく普通の友達という感覚について書きました。当たり前のことを言語化するのは大変で、20年かかりました。やっとなんとかAIの力を借りて言葉を整理しました。それほどまでに、自分の内側にある感覚と言葉の間には、深いギャップがあるのだと感じています。
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この投稿は、以下の記事を専門用語をなるべく使わずに書いたものです。
絵画の終焉以後を生きる身体 ― 神経多様性と「伴走」の実践 ―
