第二部:呼吸の宣言

第一部では、「一定以上の身体知を認めないことは理論による暴力に通じ、理論側に不在の証明責任が生じる可能性がある」ということを書きました。第二部では、理論の扱える境界線が確定した場合に現れうる人類文明についての一つの仮説を書きます。

これは、西洋理論の知の内部で、主に東洋で蓄積されてきた呼吸の知を結びつける試みでもあります。つまり、「禅の科学」の一歩として、分野を越えて身体を基準に据えることで「科学の零点」を問うものです。

しかし私の目的は、あくまでも理論上の座標軸の提案です。ここでは、その比重が最大まで高まっていく場合の仮説を記述しますが、当然ながらそれは現実社会によって整合性が測られるべきものです。

1. センサーとしての呼吸

まず、人間にとっての呼吸について考えます。呼吸は、意識と無意識の両方にまたがります。 完全に無意識的ではなく、完全に意識的でもない、生命として最も根源的な行為です。

自分の呼吸を精密に観察することは、命にとって快適か不快かという状態を瞬時に知覚するのに役立ちます。 ここでは、呼吸の変化を単なる感情としてではなく、理論的に誠実なセンサーとしての役割を考えてみたいと思います。 意識的な深呼吸ではなく、無意識で働く心臓との対話に近い性質の呼吸についてです。そこから社会の倫理を見直すと、一つの仮説が立ち上がります。

それは「他者の心身の境界線を破る行為は、最終的に自身の呼吸を乱す。それは窒息として反射する。」というものです。

ここで言う境界とは、自己と他者が互いに窒息せずに存在できるための距離のことです。「心理的安全性」や「パーソナルスペース」といった言葉を聞いたこともあるかと思います。金魚も広い水槽に入れると大きく育つのだから、適度にのびのびできることの細胞への影響は馬鹿にできません。

心理療法では、自他の間の境界線は1本ではなく、2本であるというイメージを用いるようです。自分の意見を置くのはあくまでも中間の余白地帯であり、それを破るならば相応の礼節が求められる。というものです。例えば、余白地帯に置かれた言葉に相手は合わせる義務はなく、相手の側に行動を求める時は、心理的に対等である必要があります。「ごめん!」「急いでこの仕事を代わりにやっといて!」「あとでコーヒー奢るからお願い!」前後の言葉で、仕事への心理的な負担の回復が期待される。というようなものです。

2. 境界の感性

境界に対する感性は、呼吸を磨くことで身体感覚として体得できる性質のものです。呼吸を体得するには、他者への敬意が求められます。自分に合う方法を見つける必要がありますが、古今東西、あらゆる方法が数千年分用意されています。禅やヨガ、茶道や合気道、伝統芸能や先住民の知恵、労働や日常などなどです。

呼吸においては、エリートという概念は矛盾となります。エリートであるほど、過剰な権威性に対して自身で過呼吸を感知するはずです。呼吸の達人である長老は、他者に認められた結果として現れる状態に近いものです。意図的に育てるようとしても成立せず、主には自己教育によるでしょう。「悟りとは、悟らず悟る悟りにて、悟る悟りは夢の悟りぞ」という禅の言葉に通じます。

一方で、なかなか呼吸が整わない場合、非常に強い不安に駆られるはずです。そのような思考による不安が身体感覚に先立つ時、人は合理性を装った言い訳を口にします。それが「他者との境界を呼吸で測るという身体感覚など、この世に存在しない」という台詞です。こうして人は他者の境界を壊しはじめ、それを理論として正当化しようとします。これは仏教用語でいう「魔境」の西洋科学版と言えるでしょう。

つまり、呼吸を体得できないからといって、尊厳を失うことは絶対にありません。西洋理論の理論破綻が背負うべき歴史的な責任であり、個人が背負うには余りにも重過ぎます。過剰な欲望を生み出す社会の権威構造は、理論による幸福の追求によって生まれているはずです。理論的な幸福の追求と欲望の摩擦が、社会の息苦しさの原因だと思います。理論だけでは越えられない壁を薄々感じつつ他者の境界を壊した場合、呼吸はその結果を本人に直接返すためです。

3. 経済の最適化

呼吸という価値の物差しが常識としての比重を増すと、経済の見え方も変わります。労働だけはなく、人を安心させ呼吸を整える存在にも経済的価値が生まるかもしれません。現在は、なんとなく一緒にいると気分が良くなる人が、経済的に貧しいことは珍しくありません。これは、国を治めて人々の苦しみを取り除くという「経世済民」の本質に関わる問題です。

長老であることも、未熟であることも、本人個人の選択の結果ではありません。だからこそ、彼らが誇りと安心を保てるように、生活者は喜びとともに支える社会が生まれると思います。呼吸を守ることを中心に、誰一人として強制せずとも経済が回るかもしれません。施すことがやがて施されると信じられる社会では、貨幣を過剰に蓄える必要は次第に薄れていきます。成長でも停滞でもなく、生命の呼吸に合わせた速度と規模に適正化されるでしょう。

ストレスのあまり呼吸の乱れを感じない状態の人もいるでしょう。長期間放置すると病となって表層化してしまうかもしれません。また、どうしてもセンサーが鈍く、他者の呼吸に無自覚な介入を続けてしまう人は、周囲や次の世代への債務となって他者を通して蓄積される場合もあるでしょう。両者とも、尊厳を持った状態で支援の対象として受け入れられるか、自覚的な孤立を選ぶ覚悟が求められると思います。孤立といっても、世界からの追放などではなく、社会から未成年のように扱われるという種類の選択です。なぜなら、「そのような体感が存在することを理論的に余白としておくという態度を忘れること」であり、自ら尊厳を放棄する事に通じるからです。

このカルマのような円環から抜け出す方法があるならば、私が教えていただきたいほどです。私自身、鬱により自死の危険があった時期があり、呼吸の放棄である、自死を選ばずに済む世界が望ましく思います。

4. 宗教と技術

もしも死生観に関わる宗教が、今よりもさらに呼吸を重視すると、文明全体の重心が移動します。文化や歴史的に摩擦があり、相互理解はできずとも、敬意を表すことはできます。異文化への敬意を込めた供養は、お互いの未来の呼吸を整えようとする行為として理解されるかもしれません。宗教摩擦に対しても、人間的な呼吸が通りやすくなるはずです。聖典に血が通うことを喜ばない神がいるとは考えづらいです。

過剰な不安や欲望による極端な人口増減も、次第に緩やかになるかもしれません。例えば、働き蟻は、常に7割が働き、3割が怠けていると言います。怠けている3割を集めると、7割が働き始める。思考による不安によって、人類は生物として備わっている能力を毀損している可能性があります。

怪我をした子供に、手を当てる。これを呼吸の視点で捉えると、決して無駄だとは言えないはずです。落ち着いた呼吸は、側にいるだけで伝染します。「快晴の日、天気予報も晴れると言っているのに、なぜか傘を持って出かけると、土砂降りの雨になった」というようなちょっと不思議な経験はないでしょうか。そのような直感的な感性の存在は無視できないはずです。

絶対に勘違いしないで頂きたいのですが、私は理論を軽視してはいません。理論の境界を守ることで開ける可能性についての話をしています。理論を軽んじる長老にその資格はありませんし、理論による合意形成を手放す必要もありません。理論と「呼吸による自己検閲」が対に働く時、生命の聖域が守られるのだと考えます。これが、AIならぬNI(Natural Intelligence)の起動条件だと思います。AIの電気刺激によって完全性を享受できたとしても、NIには実感と共に不完全な現実に挑戦する衝動があるはずです。技術的には、呼吸と心拍を定量的に測る装置は容易に開発できます。しかし、これはあくまでも自転車の補助輪のようなものであり、本質ではありません。

数学的に表現するならば、理論と物質の間を質量順にこのように記述できると考えられます。

理論 < 0 = 呼吸 = 空 < 物質

そして、直感を連続的に扱う芸術や禅の精神は、この基準点から垂直に伸びる「虚数軸(i)」に対応します。記号で書くならば、

i = 芸術 = 禅 = NI

となり、それぞれ「表現」「実践」「知性」と言い換えることができます。こうして、文明の物差しの基準が理論的に身体に収束していきます。

NIは、言葉になる以前の知性、つまり直感に通じるものです。呼吸の整った人は自然と生きやすくなるという、ただそれだけの話です。細胞が心地よい状態なのですから、あらゆる問題に対して対処がしやすくなるのは当然です。そのような経験知を、理論の世界が十分に扱ってこなかったという話です。理論や生活、そして緊急時のストレスに対しても、適正な距離で向き合えるようになるはずです。

5. 未来の歴史

私自身、生活環境に適応できず多大なストレスを抱えていた時期は、普段は見向きもしないテレビ番組が癒しに思え、パチンコや性風俗に猛烈に行きたくなりました。これを呼吸不全であったと考えると、政治の腐敗は市民の呼吸不全の帰結であり、ロックンロールは抑圧に抗い「呼吸の奪還」として誕生したと言えるはずです。理論の境界侵犯の最終的な帰結地点はこのような形で、実生活に表れていると考えます。

依存症や双極性障害、ヒステリーなどの精神症状のうちの一部は脳のバグとして片付けられなくなるかもしれません。環境と理論の不一致に苦しむ、生きた生命の抵抗を無視し続けることはできなくなるからです。つまり、万が一科学の零点が間違っているならば、「これまでの理論の土台自体が合理的ではなかった。」また「破綻したままの無自覚な理論の暴力性によって、全人類の生存権を数百年間棄損し続けているかもしれない」という可能性があります。権威の皆様には最大限の生意気を申し上げて大変恐縮なのですが、理論上は、全人類、全領域のありとあらゆる権威が、火球的速やかに検証すべき問題ということにならないでしょうか!

そして、もしも境界の侵害は窒息に通じるという共感が波及すると、次の可能性も考えられます。他者の魂を毀損すると債務が生じるという、科学的な共通理解です。つまり、「人間は、暴力を以前のようには引き受けられなくなるのではないか」ということです。

最大の暴力である戦争は、大義の問題ではなく、心理的、霊的な負荷が極大化する行為となります。任務として担うこと自体が呼吸困難となり、例え強行しても、現在よりも遥かに強烈なPTSDを引き起こすかもしれません。その時、科学は味方することができなくなっています。こうして欲望の暴走は、外部からではなく個人や集団の内部で打ち消しあい、少しずつ抑制されるかもしれません。当分は戦争が続いたとしても、科学的に全体の波として静まりやすくなる可能性があります。

やがて心身の狂気の時代が終わり、未来の世界では「かつて人類は、欲望に駆動された集団的過呼吸によって、自滅を繰り返した時代があった」と歴史に記述されるかもしれません。先ほどの数式が、世界憲法として定着するかもしれません。

我生きる、ゆえに我あり。

ここに呼吸文明の復活を宣言します。

終わりに

私は、これが言語化された時点で、人類史は理論的な不可逆性を得ると考えます。しかし、これはただの絵描きが自身の感覚を合理化しようとして書き出したものにすぎません。なので、自閉症と双極性障害の精神疾患者による誇大妄想の結晶であるとして一蹴されるかもしれません。それでも一向に構いません。これまでの人生と全く同じように、屁理屈だと笑われるだけです。

多数派の方々から何を言われても、私自身にとっては万事がこの違和感のもとに生きているのは動かしようのない事実なので関係ありません。権威を必要以上に挑発したように思えたら申し訳ないのですが、理論上の危険性と緊急性、そして言語化できない違和感に押し潰されながら生きてきたことを想像し、ご納得頂けましたら幸いです。

ただ、生活の不便が解消に向かうと嬉しいですし、私以外に苦しんでいる人の呼吸が楽になると本当に嬉しいです。「世界中の芸術家は、やっと温かい涙が流せる」そのような希望を描いています。それでも残念ながらあくまでも本質的には税務処理なのであって、時代の掃除係の気持ちです。これが書けたことで、私の残りの人生は余生の楽しみという心持ちでいることができます。世間から採用されようとされまいと、これからも私は絵を描くだけです。IMAGINEはタダですから。

なんでもない普通の感覚をお祝いします!笑

 

2026年2月8日 20時
宮内博史