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沖縄に手紙を送りませんか?

11月3日より、かもめホテルで首里城の火災に対するご寄付の受付を始めます。

木版画ポストカード「すいぐすくのうちなーせーく(首里城の沖縄大工)」を100点制作しました。
一枚一枚、因州和紙に刷りました。手がビリビリです。
1031円を超えてご寄付を頂いた方にお渡しします。
お金は全額を寄付させて頂きます。

この活動をするきっかけとなった、首里城の修復に携わった大工さんとの物語を書きます。



2011年冬。僕は沖縄にいた。
首里城の修復にも携わった、うちなーせーく(沖縄大工)の親泊(おやどまり)次郎さんに会うためだ。

当時の僕は、行き詰まった絵を辞め、職業訓練校で建築を勉強し、伝統木造建築の大工になりたいと思っていた。宮大工に憧れつつ、沖縄大工にも憧れた。素朴な美しい木造赤瓦住宅が、あの猛烈な台風で吹き飛ばされないで残っている。一体どうなっているんだろう。そんな事を思ううち、次第に気になって仕方がなくなり、インターネットで見かけた親泊次郎さんに電話した。すると、ぜひお会いしましょうと快諾を頂き、訓練校の冬休みに沖縄に飛んだ。

約束の時間は夕方。宿に荷物を置き、沖縄での時間を無駄にしたくない僕は、連絡していた他の大工さんの現場や首里城を見て周った。木造建築といえど、色々な建て方がある。木材同士をガッチリと組み上げる方法もあれば、ボルトを使って穴をシリコンで埋める方法もある。パッと見は伝統的な赤瓦の家に見えるけれど、先に見た大工さんはボルトとシリコンをたくさん使っていた。もし技術があっても、予算や納期との兼ね合いで手の込んだ建築は難しいのが現実だと思う。そして、さすがの首里城はガッチリとした木組みだった。浅はかな建築の目線で見回し、こりゃ僕の知識では測れないな。と思って後にした。

夕方、次郎さんの奥さんが車で迎えに来てくれた。到着したのは、ご自身で建てられた木造3階立ての自宅。トートーメ(お仏壇)にご挨拶し、家の中を案内していただく。天井板がない部分やあちこちの仕上げをしないままの部分がある。県の職員さんも見学に来られるから、少しでも技術を伝えるためにそうしてあるのだとか。千葉に帰るまでご自宅に泊めて頂く事になり、巨大パズルのような図面を見ながら、床下や天井に潜って写真を撮ったり、作業場を見せて頂いたりした。建築の話が大好きで、冗談を交えながら笑う次郎さんと、パワフルで豪快な奥さんに囲まれて、1週間弱の滞在はあっという間に過ぎた。

技術的な事で僕が驚いた事を少し書くと…。①床組の大引根太(床は普通、太い木の上に細い木が乗って、床板を貼る。だけど、ここでは太い木の上にさらに太い木が組まれていた。)②構造としての鴨居(扉の上の部分の木材を柱に突き刺して、建物の骨組みにする。首里城も同じだった。)③貫の蟻加工と楔(壁の裏側で柱と柱を繋ぐ木が、一つ一つ手間暇かけてガッチリ組まれていた。)

その後の僕は、内地の大工に弟子入りして、あっという間に辞めてしまった。一度ご挨拶に伺ったきりお会いしていないけれど、沖縄大工は今だに憧れの存在だ。伝統木造建築は、計算や理論だけでなく、天然の木を扱う人々にしか見えない世界があると思う。僕は、大学の先生の理論の下でめちゃめちゃに振り回されている現場にいた事もある。先人達の声に耳を傾け、予算を当てがい、研究はされているだろうか。昔は家が基礎に固定されていないから、地震が来ても家自体が動いて崩れる事を防いだという。建築基準法に、大工の棟梁の声は届いているのだろうか。

根性無しのないちゃーがうちなーのまぶやー(内地人が沖縄人の魂)の何がわかるのかと言われたら、僕に言葉はない。だけど、次郎さんが見ず知らずの僕を迎え入れてくれた時に、言っていた事がある。今回の首里城焼失を受けて、その言葉を思い出す。

「石にかじりついてでも技術を伝えたい」

この言葉が響く事を願う。

>>>こちらに記事があります。
【職人インタビュー】大工棟梁 親泊次郎氏(77歳)