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まとまらない人を読んだ人②

鬱になると、なぜ生きているのかをずっと考える。鬱を抜けると、そんなこと考えない。「だって生きているから」と思うだけになる。そこには幸福の床があって、決して抜け落ちない気持ちになる。操状態の時は空に浮かんでいるように無敵の気持ちになる。地上にいた事も忘れるし、ましてや地下空間があるなんて気にしなければいいのだと思う。空を飛んで調子に乗って帰ってくると、地面は抜け落ちていて、下に落っこちる。そういう三つの層がある感じ。

僕は、何かを作るための心の状態を整える事にエネルギーを注いできた。1週間後の予定が気になって集中できないこともよくある。でも、散歩で足を動かすように、ただただ手を動かしてみれば、何かが出てくるのだろうか。いくらでも出てくるような感覚になるし、とりあえず少しスッキリするけど、後で不毛な気分と向き合う事になる。

消さないやることを決めて、日課を作ってみようと思う。散歩とお茶と絵、あと時々の建築作業はちょうどいい。その間は手を動かす。頭が働かないくらいに。眠いけど寝れないみたいに。鬱だし不眠症なので、それならできる。

小さい頃から眠るのが苦手だった。さらに僕は、むずむず脚症候群と言って、夜になると足が気持ち悪い症状と共に10年以上生きている。眠れない状態のプロだ。睡眠導入剤を飲んでも、頭は寝てるのに、足が気持ちが悪くて眠れない。何かをする気にもなれないで、ぐずぐずYoutubeを見るばかり。だから、寝る前の思考が鈍った状態なら得意中の得意。その状態で作ることをしないでいた。夜は書き物に向かないと思っていた。それは統一されないから。統一しなくていいなら最の高だ。

絵や言葉の塊は、パズルみたいにイメージできる。不思議なことだけど、人の頭の混乱が手をかざすとわかったりする。静電気のようにモヤモヤした塊の動き方がある。気やシャーマンのような世界の人との出会いが多くて、教えてもらったり、本も読んだ。仕事にしようと思ったけど、一人ひとりとか、気功のような形ではなくて、絵にしたら僕が死んでも残ると思う。死んでも一人一人に直接会える。だけど、お金にする方法が苦手。そこでも一つの壁がある。でも、もしかしたらお金だって計算ではなくて感覚の中にあるのかもしれない。

藤原正彦さんという数学者の方は、数学は「情緒」でするものだという。数学は美しいものだから、美しさが分からないと一定以上は伸びないのだとか。だから、子供に算数を教える前に、「花が綺麗だね」とか「今日は満月だね」とか、そう言うことを日常的に話したほうがいいんじゃないですかって。

お金の計算は習ったけれど、全く違った捉え方は習わない。個々人のポリシーや粋な気概のような、詩のようなものとして捉える経験のことだ。人におごる時の作法というか、奢ってもらうあり方。全然できないけど。貯めるのではなくて、使い方の美しさ。計算させようとする勢いがとても強い。お金が減るとどんどん心配になるけど、数学や詩のような美しさで捉える事はできないかな。そうやってモヤモヤしたものとして捉え直せば、案外心配することはないのかもしれない。本当かなぁ。笑