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まとまらない人を読んだ人③ いのっちの絵とバトン

僕は携帯電話を持っていない。電話はものすごく緊張する。着信履歴があったら、その人を嫌いになりそうだから持たない。

坂口恭平さんは自分の電話番号を公開して、「いのっちの電話」という、自殺したくなった人がいつでも電話をかけられる活動をしている。僕はそこまでオープンな人ではないけど、自殺の問題は本当に気になって気になって仕方がない。年間2万人。30分に1人。若者の自殺率は世界一位。積極的に死にたいと思わなくても、死にたいと思う方向に心を動かされるのだと思う。個人では太刀打ちできないような社会の空気がある。

僕は、その空気をなるべく和らげる事に気を使ってみたり、無意識の衝突の問題を考えてみたりする。それを絵に描いたりする。誰にも気づかれなくてもいいかと思っていたし、言葉にもまとまらなかった。

この2年くらいは、絵が植物のように成長しない事で悩んでいた。絵にするとそこだけ時間が止まってしまうような気がして、それそのものは成長しない。やがて忘れられてしまうのが怖かった。だから、どうせ忘れられるものだからとすぐに絵も消していた。

でも、こうやって描いて動けるのは、先人たちの絵や言葉が残っていたからだし、「まとまらない人」という可能性を感じたからだ。うさんくさいけど、小綺麗にまとまるよりは生々しくていいかもしれない。

絵画自体でなくても何かが、植物のように成長しているのだと思う。絵は種であればいいのかな。神秘的な芸術家になろうとしないで、理解されないならされないでも、売れなくても発信はできる。自分で根っこを出そうとすればいい。そうして、いのちが繋がると思える事が生きる力になる。

これは、絵や言葉だけに限らない。音楽や演劇、ダンス、料理、散歩、学校、医療、子育て、呼吸、睡眠、なんでもいい。人は何かしらの形でタネのようなものを渡す事ができる。それを言葉にしたり演奏したり、どういう形であっても人にバトンする事で、その人の中で成長すると思う。本の読み聞かせもそう。子供は登場人物の名前さえ理解していなくても、もっと読んで欲しいという。愛情を聞いている、感じているのかと思う。大きくなったときに、その種が成長して思い出さないまでも力になっているかもしれない。

よくアーティストが「インスピレーションが降ってくる」というけれど、降ってきているのは作品のためだけではないと思う。いつでも違う形で降ってきている。だから、言葉にできなかったり、必要なバトンを渡せない時は苦しくなる。答えは風の中かもしれないけれど、流れに逆らわずないバトンのあり方を感じていたい。