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日課と犬の散歩

坂口恭平さんの「まとまらない人」を読んで、言葉を書くことを日課にしようとして数日経った。僕の中で完全にブームになっている。面白いくらいに書けた。そこで早速、試しに1日休んでみた。言葉の感覚が少しずれた。ネガティブな批判というより愚痴に近い文章になった。まとまらないのは元からだけど、うまく出せない。一本の線の上に乗らない。編めない。時間がかかる。

楽器の演奏は、1日休むと3日戻るという。言葉は、体の中で腐ってしまうのかもしれない。発酵になればいいけれど、そういう感じではない。ほんの少し見えかけていた線が、解けていく。創作のことを、排便や自慰に例えたりする人もいる。作らない、言わない事による便秘とでも言えばいいのかな。あまり好きではな例えではないので、僕は呼吸と考える方が好きだ。空気を吸い過ぎ。生々しさが減っただけでどっちにしろ危ない。

だけど、吸う事と吐き出すことのバランスが、僕にとって今なぜ言葉や絵なのかと思う。もちろん人によるだろうけど、ネットで情報に触れる機会が増えた事と関係があるのかなと考える。情報を吸って、情報を吐き出す。必要なものは残って、不要なものは吐く。だけど、吐いたのは不要なものではなくて、必要なものを取り込んで変化した状態での息。腐っていない息がいい。あかちゃんのようないい匂いのうんち。

日課について思うのは、犬の日課。いつもの散歩のルートがあって、それが少しずつ変化する。雨の日はこっちに向かうとか。今日はこの木でおしこっしないとか。行く道もだんだん変わるし、食べ物の好みも変わる。知らず知らずに変化してて、そうえば変わってる事に後から気が付く。亡くなってしまったお犬様は、体と会話していたんだろうな。

なんとなくの日課と変化。気にし過ぎて身動きが取れなくなっても困る。まだバランスが掴めていないけど、日課は犬の散歩のようなものだと思うと続けられる気がしてきた。万歩計の数字を残す感じでいいのかもしれない。