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猫は生きている。一歩前へ。

坂口恭平さんの本を初めてちゃんと読む事ができた。前に何冊か友達が教えてくれたのだけど、ブレまくってて何を言っているのかわからなかった。友達は、その振動が良いのだと言っていた。それから「振動」という言葉はずっと残っていた。

今回は、アーティストという姿勢と現代アート世界に対する考えを色々書きたくなった。

現代アートは、美術史の文脈やコンセプトが大事だけど、現在は現在と意識した瞬間に既に過去になるから、過去アートなんじゃないかと思う気持ちもある。現「代」だから違うんだろうけど、狂人の未来が気になる僕はその先の話が好きなのかもしれない。歴史の文脈で鑑賞するなら、ヒエログリフを見るのに似ていると思う。それは観察であって、生身の体を持って体験する必要はないんじゃないかなぁ。記念碑の建てっこ。それとも思考と体感の間の錯覚の部分に働きかけたいのかな。政治的な表現を守ることも大切だと思う一方で、そんな風に思ってしまうのは、馴染めない嫉妬からなのかもしれない。

自分に分裂を許した途端にこうなる。調子に乗ってごめんなさいと思いながら、えーい書いてしまえ!と思う。言葉が腐る前に。

そう。腐る、だ。現代アートは社会の排泄物に例えられることもある。見たくもないような強烈なインパクトがあって、社会の荒療治のような大事な役割があると思う。そのような、思考で楽しむ現代アートは、マルセル・デュシャンという人が、便器を作品だと言ったのが始まりと言われている。「便器はただの物体」だとしていた常識がひっくり返ったんじゃないかな。キリスト教の影響だろうけど、神は教会にいるから、便器に魂は存在しない前提があると思う。便のための器、以上。そういう世界。なんなら植物も栄養と水で育つ物体だという哲学者もいたはず。そんなわけないのに、という世界に居たい。

ドイツでは、パーティの後に日本人が掃除していると、「手伝いたいけど手伝えない」というドイツ人の友達がいた。話を聞くと、掃除は貧しい者がする仕事だからだそう。僕らはそう思わないし、なんなら尊敬する文化があるよ。って話をして一緒に掃除した。お金持ちになると掃除後の清々しさを味わえないくらいある意味では貧しくなるのが面白い。

パリの駅では、犬か人かのうんちの周りに、踏まないように注意する駅員が立っていた。彼自身は掃除する気配もなく、ただ注意するだけ。心が狭くある事を当然に求められている社会なのかと思って見ると、滑稽な光景。

だからって日本が素晴らしいなんて全然思わない。僕が言いたいのは、アートが思考に進むのではなくて、便器の作品は全然違う解釈ができるよね、ってことだ。

日本には自然宗教のような世界がある。八百万の神がなんたらとか、天皇がなんたらなんて話をしたいわけじゃない。「トイレの神様がいる」世界に住んでいる事がいいたい。「妊婦さんがトイレ掃除をよくするときれいな子が生まれる」とさえ言われる。全くの迷信かもしれないし、男性も手伝う方がいいと思うけど、とにかくそういう世界に住んでいる。それを研究するのには、そのような世界を想像するのではなく、実際に体感できる日本がちょうどいい。

Piss Christという、キリストにおしっこをかけた作品が物議を醸したそうだけど、そもそもトイレや排泄を100%ただの汚物として片付けるからそうなるのだと思う。まぁ、とはいえ汚いと思うし、汚してくる感じはわかる。

だけど、便器さえもある意味神の宿る場所。

あらゆるものに神が宿ると思えば、神でないものはない。自分が便器を見るのは、神が神を見ているという不思議な状況になる。僕はそこまで言いたいのではない。体感として便器はあるとして、そこに宿る魂のようなものに目を向けてみたい。

とは言え、日本で太鼓の音に精霊が宿るとか言い始めると、新興宗教のように聞こえる。特にオウム真理教の事件の影響は大きいと思う。僕は人間を操れる事や超能力と、人間性は別だと思っている。麻原彰晃がすごくても、人間性とは関係ない。

同じように、思考ですごい事と、作品に魂が宿る事は別だと思う。お祓いした便器と普通の便器を並べるとかすれば、何か感じるのか。なんて、それは想像でいい。僕は気を習ったけど、開業するつもりはない。一人ひとりに施術したり集団で遠隔治療なんてこともできるのかもしれないけど、限界がある。だから絵にしたい。僕が死んでも一人一人と向き合える。

量子力学の世界では、人間が観察するまで箱の中の猫が生きているか死んでいるかわからないという「シュレディンガーの猫」という思考実験があるそう。僕は、猫の生死をわかるようにしたいのではなくて、猫が生きていると思った上で作りたい。身体的な動作を持って霊的なものを作る事に興味がある。猫が生きているかどうか不安になったときに、鬱になるように思う。それはとても大事な神話の崩壊だと思う。人間の思考実験の都合で、空想の猫を殺さないで欲しい。

魂の宿ったものを作るときに、魂込める風のうぉぉっていう動作は重要ではないと思う。ただ何かの力のパイプであればいいという姿勢を思う。その姿勢はシャーマン世界に通じる。もうすでに書いてあると知る。過去や先祖に想いを向ければ、導かれている未来に通じる、のか。どこへ行こうか知っているのはすでに僕ではないのかもしれない。

僕はお酒もタバコも薬もやらない。文章で酔える事があるから面白い。いのっちの電話は、テレフォンシャーマニズムかな。すごいなぁ。現実は夢で、僕らは夢を作る事ができるって言っていたのは、バシャール。書いてて酔って来た。読んでみて気持ちよく酔えてたら嬉しい。

自分自身が何をどこまでできているかは知らない。美術館に行くのも、道中で疲れてしまうので苦手だし、見ることのできない絵が多い。コンセプトを読んでいる間に疲れる。でも、思考も忘れたくはない。感覚だけ勢いに乗せられた時、ナチスのようになるんじゃないかと思うと怖いから勉強したい。シャーマンの力も悪用できるだろうけど、必ず自分に返ってくると思う。勝手に自滅すればいい。僕は振り向かず、一歩前へ行こう。

絵として3次元のものを2次元に置き換えるとき、デッサンが狂っているとかは二の次の話だと思う。そもそも物体は平面じゃない。4次元というか、時間を超える力に興味がある。神話の欠乏には、3次元のイリュージョンではなく、思考でもなく、死んでも誰かと対峙できる気になれるものがいいのだろうか。こんな事書いてしまって、アート好きの目に触れる事は怖い。僕には大した知識はない。

食うために、お金を稼がなければと焦って、画家。芸術家と名乗った。半年に一度はホームページを大改造する。それは、分類できない事が発生しまくっているから。絵を描くし版画もするし、写真もやる。コンピューターを学び、建築を学び、太鼓を打って、気を学び、会社を経営して、海外に出かけて、教育者から暴力を受けて、家族の問題に頭を悩ませて、お金にも困って、鬱にもなった。絵だけを描いている人と思われたくもないし、まとめ上げるのが便利なのはわかる。だけど、お金も静電気みたい塊ならそういう心配は無用かもしれない。

絵描きだから絵描きらしくしないといけない。そんな姿勢の中には僕が思う絵描きはいない。まるで「粋」という半纏を着るような無粋な事なんじゃないかと思う。アーティストであるかどうかわからないくらいでいいのかもしれない。自分が思う振動に、お腹の心を向けていたい。