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カリスマとみかんの話

幾つかのワークショップに参加したり、幾つかの本を読んだ。自分で自分の限界を定める癖がついていて、それを吹き飛ばす訓練のような感じの内容と言えばいいのかな。どれも方法は変わっている。放っておいて限界を定める事が刷り込まれているのだから、常識的に変わっていないと意味がない。あくび、呻き声、くねくねダンスだったり、言霊で体と無意識を引っ張る感じだったりする。それは停滞して鬱々とした気分を吹き飛ばす。体に備わった加速装置を起動させる。心も体もびゅんと持っていかれる。

自分の新しい一面を発見する、良い機会でもある。だけど、ちょっと怖いことでもある。それが自分のお腹の心から離れていくかどうかを注意したい。面白い人、変わった人が提唱する加速と集中。多くの人が取り入れて、多くの人と知り合いのはずのなのに、そられは公的なものではない。公的なものが良いといいたいのでもない。常識の外側の研究だから、個人が行っているのだろうけど、統一される気配なく散り散りに行われて、それぞれでまとまっていたりする。それは、宗教の力に近いのではないだろうかと思ってしまう。違うんだけど、似てる部分がある。

既存の宗教が良いとも思わないので、どっちでもいいのだけど、僕はどっちもちょっと怖い。取り入れはするけど、取り込まれはしないようにしたい。僕は人の名前で祈らない。誰しもが何らかの形で宗教や無宗教教に取り込まれているとは思うけど、加速が怖い。そのような人から暴力を受けた事があるからトラウマなのだと思う。たまたま暴力を受けただけで、無関係なのだからもう少し信じてもいいのかもしれないのに、それでも怖い。

スティーブ・ジョブズの現実歪曲フィールドを使える人たちや、麻原彰晃のような人の心を操れる人たちは本当にいると思う。何らかのカリスマ的才能。そういう人たちが未来を作るのか、破滅を作るのかは、彼らに酔った状態では未来を作るようにしか見えなくなるのだと思う。偉人たちの神がかったエピソードと、本人の人間性は別。遠くから同じ人間として観察したり、ダメな部分に注意できる距離で正負の遺産を分別できるくらいが僕には丁度いいのかな。でも、酔った状態も気持ちよさそうで羨ましい。

注目されるし社会的には成功できるかもしれなくても、怖い。既存の価値観に全てバツをつけて、ナチスに酔う事と似ているのではないかと思ったりするとゾッとする。僕は今を生きているから、伝統的な価値観に両手を挙げて賛成するわけではない。だけど、伝統的なものを現代の価値観だけで測る事を恐れる。現代の価値観が行き詰まった時、理由も分からずに続いていた伝統から解決のヒントがあるかもしれないからだ。伝統的な積み上げが高ければ高いほど、重さが増すし、扱いづらいし、弊害が出るし、取りつく島もない程権威的で威圧的だったりする。だから腹が立つのだけど、全てを御破産にした不安定の上に立てる人は限られる。僕は自分が立てるかどうかと同じく、保守的な人が立てるかどうかにも興味がある。万が一社会の価値観が転倒した時に、意味のない人生を送ってきたことを受け入れる事ができる人ばかりではないと思うからだ。

僕は絵画の世界での「日本画」という言い方に馴染めないのだけど、それは洋画の技法の登場に対して後から作られたものだと思うからだ。絵画世界が分裂しているのではなくて、日本の技法を守るための方言だと思う。だから、日本画という名前は、芸術ではなくて伝統的技術の事だと勝手に思っている。そのことといい悪いを判断するのは今ではないという名前。同じように社会が急に変化した時に、政治や宗教的についてこれない人や、弾き出されてしまう人が出てくる。共同体が分解されてすぎて自殺してしまったり、人知れず力が集まって巨大な暴力になったり、という方向で発揮されてしまったら、何も変わらないどころか迷惑な自己満足でさえあると思う。僕はこの国の自殺率は異常だと思うので変化を歓迎はするけど、あまりにも急激な変化は怖い。

そして、僕が加速できないのは、鬱の穴蔵への興味でもあるのかもしれない。加速しないことで、方向を定めている途中とも言える。いつまでやってるんだろうとも自分でも思う。ある意味そういう加速の仕方でもあるのかな。集中すべきは誰かのことではなく、自分の中に既にある。あらゆる広告は、あなたの外側にあなたの幸せがあると言ってくるような気がする。もう内側にあるのだから、外側に向かう必要はない。それさえも何がどうなのかもわからないけど、それらを解明する途中なのだと思って少し落ち着くことにする。

形にならない形、言葉にならない言葉。永遠にたどり着かないような目標が面白い。それを目指して進む事が信じられなくなった時、気分はどんどん落ちてゆく。だけど、生きることは理由ではなくて、そもそもが「気持ちの良い事」なのだとしたら、その道中はなんて幸せなのだろうと思う。幸せが未来や過去にあるのではなくて、気持ちの良い状態の連続を発見できるかどうか。夢物語を話しているのか、現実なのか曖昧な中に、お腹の心と共に次の一歩を踏み出したい。僕はカリスマ的才能で人を引っ張るタイプではないし、誰かについて来て欲しいとも思わない。それより一緒にお茶を飲みたい。コタツにみかんの季節です。