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ADHD

精神科に行った。
診断はADHDで、必要があれば障害者手帳も発行できるそう。

「不安定さも個性だから、矯正しようとするとあなたの長所もなくなっちゃうんじゃないですか」って。

普通に合わせなくていい。
症状そのものよりも、理解して貰えない事の方が大変だったからすごく救われた気分です。

紙一重の現実に生きる不便さと面白さは、この写真みたいな感じ。

 

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うずうず

昨夜、躁状態のようになった。
もう10年以上になるむずむず足症候群がひどい。
うずうずする。
カーテンを閉め、全裸で100号のキャンバスに絵を描いた。
すごくよかった。
絵具を少し乾燥させてまた描く。
それまでの間手持ち無沙汰になる。
ぐらぐらした勢いが残っている。
この謎の前のめりで倒れそうな勢いをどこかに残したい。
こうして、ホームページの見た目を更新した。
おわり。

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数のはじまり

世の中が物騒なようなので、素数を読んで落ち着く代わりに。

「達人に訊け!」と言う本の中から、数学者の藤原正彦さんとビートたけしさんの対談を久しぶりに読んだ。

藤原さんとの対談で、ざっくり思い出すこと。
・数学は美しい。
・数学は情緒でする。
・今は証明できなくても、美しい数式は残ると思う。
・公式の暗記と、数学的な思考とは別。
・頭がいいわけじゃないのに、頭がよく見える。

とても面白い!
そもそも数学ってなんなんだと思う。
いわゆる文系の僕なりに、数の始まりについて考えてみた。

数のはじまり

0
始めに0があった。
0は何もないから、0は自分が0だと気づかない。
だから、0はないのと同じだった。

1
そこに、1が一つ誕生する。
あるのは、1と0だけだった。
例えば、1が人だとする。
人は何もないところにいた。
だから、その人には自分というものがわからなかった。
0と1は、ないのと同じだった。

2
1がもう一つ誕生する。
もう一つの1も人だとする。
人と人はお互いを見て、初めて自分がある事を知った。
存在を感じ、そこに人と人の間が生まれた。
間がある事で、人間が生まれ、2が生まれた。
それから、0がある事を知った。

なんだか神話みたい。

本当かどうかは知らないけど、数学の世界で1+1=2を証明するのは大変だそう。
僕は、数の始まりは、0と1でなくて、1+1=2にあるんじゃないかと思う。

感じる事の始まり。
無と有では感じられなくて、有と有で初めて感じることができて、無を思う事もできる。
1+1=2の証明は数学の世界の問題ではなくて、言葉の世界、神話みたいなものでいいんじゃないかなぁ。
まず感じることがあって、それを言葉にして、それから数が始まる。

「数学は感じることから始まる」と言う事で、
「1+1=2」の証明と、「数学は美しい。情緒でする。」と言うことの証明を同時にした気になる。
暖かい数学。笑

勝手に大発見した気になって、おわり。

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青い薬箱

 

生きているのに死んだ気になる不思議。
死ななければ生きているという不思議。

外用薬の処方箋を頂いた。
困ったときには、青い薬箱を開けたらいい。
服用できるであろう揺れる言葉たちは、手の熱で溶けてしまいそうで気を付ける。

それは僕の外にあって、内側にないからいい。
いつでも人が写っている鏡に、なぜだか安心する感じと言えばいいのやら。
見えないのに、しかと「居る」。
そうして自分がここに居ることを思い出す。

丁寧な所作は茶道からか、崩す姿勢は落語からか、それとも生まれ持ってのものか。いや言い過ぎたな。笑
出されていない手紙を受け取った事にして、出すつもりのない手紙を書く。
しかと一方的なお礼の手紙を。

何もかもが勝手な妄想であれ、眠れない夜をそっとしまう楽しみができた嬉しさをここに。

(「水温集」という水に溶けてしまう詩集のお話)

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カリスマとみかんの話

幾つかのワークショップに参加したり、幾つかの本を読んだ。自分で自分の限界を定める癖がついていて、それを吹き飛ばす訓練のような感じの内容と言えばいいのかな。どれも方法は変わっている。放っておいて限界を定める事が刷り込まれているのだから、常識的に変わっていないと意味がない。あくび、呻き声、くねくねダンスだったり、言霊で体と無意識を引っ張る感じだったりする。それは停滞して鬱々とした気分を吹き飛ばす。体に備わった加速装置を起動させる。心も体もびゅんと持っていかれる。

自分の新しい一面を発見する、良い機会でもある。だけど、ちょっと怖いことでもある。それが自分のお腹の心から離れていくかどうかを注意したい。面白い人、変わった人が提唱する加速と集中。多くの人が取り入れて、多くの人と知り合いのはずのなのに、そられは公的なものではない。公的なものが良いといいたいのでもない。常識の外側の研究だから、個人が行っているのだろうけど、統一される気配なく散り散りに行われて、それぞれでまとまっていたりする。それは、宗教の力に近いのではないだろうかと思ってしまう。違うんだけど、似てる部分がある。

既存の宗教が良いとも思わないので、どっちでもいいのだけど、僕はどっちもちょっと怖い。取り入れはするけど、取り込まれはしないようにしたい。僕は人の名前で祈らない。誰しもが何らかの形で宗教や無宗教教に取り込まれているとは思うけど、加速が怖い。そのような人から暴力を受けた事があるからトラウマなのだと思う。たまたま暴力を受けただけで、無関係なのだからもう少し信じてもいいのかもしれないのに、それでも怖い。

スティーブ・ジョブズの現実歪曲フィールドを使える人たちや、麻原彰晃のような人の心を操れる人たちは本当にいると思う。何らかのカリスマ的才能。そういう人たちが未来を作るのか、破滅を作るのかは、彼らに酔った状態では未来を作るようにしか見えなくなるのだと思う。偉人たちの神がかったエピソードと、本人の人間性は別。遠くから同じ人間として観察したり、ダメな部分に注意できる距離で正負の遺産を分別できるくらいが僕には丁度いいのかな。でも、酔った状態も気持ちよさそうで羨ましい。

注目されるし社会的には成功できるかもしれなくても、怖い。既存の価値観に全てバツをつけて、ナチスに酔う事と似ているのではないかと思ったりするとゾッとする。僕は今を生きているから、伝統的な価値観に両手を挙げて賛成するわけではない。だけど、伝統的なものを現代の価値観だけで測る事を恐れる。現代の価値観が行き詰まった時、理由も分からずに続いていた伝統から解決のヒントがあるかもしれないからだ。伝統的な積み上げが高ければ高いほど、重さが増すし、扱いづらいし、弊害が出るし、取りつく島もない程権威的で威圧的だったりする。だから腹が立つのだけど、全てを御破産にした不安定の上に立てる人は限られる。僕は自分が立てるかどうかと同じく、保守的な人が立てるかどうかにも興味がある。万が一社会の価値観が転倒した時に、意味のない人生を送ってきたことを受け入れる事ができる人ばかりではないと思うからだ。

僕は絵画の世界での「日本画」という言い方に馴染めないのだけど、それは洋画の技法の登場に対して後から作られたものだと思うからだ。絵画世界が分裂しているのではなくて、日本の技法を守るための方言だと思う。だから、日本画という名前は、芸術ではなくて伝統的技術の事だと勝手に思っている。そのことといい悪いを判断するのは今ではないという名前。同じように社会が急に変化した時に、政治や宗教的についてこれない人や、弾き出されてしまう人が出てくる。共同体が分解されてすぎて自殺してしまったり、人知れず力が集まって巨大な暴力になったり、という方向で発揮されてしまったら、何も変わらないどころか迷惑な自己満足でさえあると思う。僕はこの国の自殺率は異常だと思うので変化を歓迎はするけど、あまりにも急激な変化は怖い。

そして、僕が加速できないのは、鬱の穴蔵への興味でもあるのかもしれない。加速しないことで、方向を定めている途中とも言える。いつまでやってるんだろうとも自分でも思う。ある意味そういう加速の仕方でもあるのかな。集中すべきは誰かのことではなく、自分の中に既にある。あらゆる広告は、あなたの外側にあなたの幸せがあると言ってくるような気がする。もう内側にあるのだから、外側に向かう必要はない。それさえも何がどうなのかもわからないけど、それらを解明する途中なのだと思って少し落ち着くことにする。

形にならない形、言葉にならない言葉。永遠にたどり着かないような目標が面白い。それを目指して進む事が信じられなくなった時、気分はどんどん落ちてゆく。だけど、生きることは理由ではなくて、そもそもが「気持ちの良い事」なのだとしたら、その道中はなんて幸せなのだろうと思う。幸せが未来や過去にあるのではなくて、気持ちの良い状態の連続を発見できるかどうか。夢物語を話しているのか、現実なのか曖昧な中に、お腹の心と共に次の一歩を踏み出したい。僕はカリスマ的才能で人を引っ張るタイプではないし、誰かについて来て欲しいとも思わない。それより一緒にお茶を飲みたい。コタツにみかんの季節です。

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夢の言葉

いい夢を見ると一日の始まりが良いどころか、一日中良い気分で過ごせる。悪い夢が本当はいいのだと言われたりするけど、不眠症で悪夢ばかり見る僕はいい夢を見たい。いい夢を見たら、いつもは拾わない道のゴミを拾いたくなるくらい嬉しい。

星新一さんのショート・ショートを読むと、より高確率で悪夢を見る。グロテスクな作品もそう。刺激的なのは面白いのだけど、夜中に飛び起きる戦慄を思うと腰が重くなる。

最近詩のような言葉を書き溜めてみて、何をしたいのか考える。僕の目標はいい夢が見れる事にしようかと思う。機嫌の良い人が世の中に増えると嬉しい。叶わなくてもいいのだけど、言葉になる前の言葉を扱うための言葉。笑

全く自由に書けばいいのだから別に気にしないでもいいんだろうけど、この方向。そんな事ありえなくない?ってくらいがいい。多分できるけど、縛られすぎたくはない。自由な明晰夢のような事なのか、よくわからないけどおぼろげに。

詩はなかなか触れる気にならないかもしれないけど、普通の文章でもそうであったら嬉しいし、絵でもそう。作品という形じゃなくても、何をするにしてもできる事かもしれない。人生を作品だというのか、そんな枠から飛び出たいのか、枠なんて存在しないのか。とにかく普段の生活の中の色々な場面でそんな流れを感じてみたい。

そうやって犬の散歩みたいに続けていたら、だんだんいい夢が見れるかもしれない。
亡くなってしまった愛犬と夢の中で散歩する。

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猫は生きている。一歩前へ。

坂口恭平さんの本を初めてちゃんと読む事ができた。前に何冊か友達が教えてくれたのだけど、ブレまくってて何を言っているのかわからなかった。友達は、その振動が良いのだと言っていた。それから「振動」という言葉はずっと残っていた。

今回は、アーティストという姿勢と現代アート世界に対する考えを色々書きたくなった。

現代アートは、美術史の文脈やコンセプトが大事だけど、現在は現在と意識した瞬間に既に過去になるから、過去アートなんじゃないかと思う気持ちもある。現「代」だから違うんだろうけど、狂人の未来が気になる僕はその先の話が好きなのかもしれない。歴史の文脈で鑑賞するなら、ヒエログリフを見るのに似ていると思う。それは観察であって、生身の体を持って体験する必要はないんじゃないかなぁ。記念碑の建てっこ。それとも思考と体感の間の錯覚の部分に働きかけたいのかな。政治的な表現を守ることも大切だと思う一方で、そんな風に思ってしまうのは、馴染めない嫉妬からなのかもしれない。

自分に分裂を許した途端にこうなる。調子に乗ってごめんなさいと思いながら、えーい書いてしまえ!と思う。言葉が腐る前に。

そう。腐る、だ。現代アートは社会の排泄物に例えられることもある。見たくもないような強烈なインパクトがあって、社会の荒療治のような大事な役割があると思う。そのような、思考で楽しむ現代アートは、マルセル・デュシャンという人が、便器を作品だと言ったのが始まりと言われている。「便器はただの物体」だとしていた常識がひっくり返ったんじゃないかな。キリスト教の影響だろうけど、神は教会にいるから、便器に魂は存在しない前提があると思う。便のための器、以上。そういう世界。なんなら植物も栄養と水で育つ物体だという哲学者もいたはず。そんなわけないのに、という世界に居たい。

ドイツでは、パーティの後に日本人が掃除していると、「手伝いたいけど手伝えない」というドイツ人の友達がいた。話を聞くと、掃除は貧しい者がする仕事だからだそう。僕らはそう思わないし、なんなら尊敬する文化があるよ。って話をして一緒に掃除した。お金持ちになると掃除後の清々しさを味わえないくらいある意味では貧しくなるのが面白い。

パリの駅では、犬か人かのうんちの周りに、踏まないように注意する駅員が立っていた。彼自身は掃除する気配もなく、ただ注意するだけ。心が狭くある事を当然に求められている社会なのかと思って見ると、滑稽な光景。

だからって日本が素晴らしいなんて全然思わない。僕が言いたいのは、アートが思考に進むのではなくて、便器の作品は全然違う解釈ができるよね、ってことだ。

日本には自然宗教のような世界がある。八百万の神がなんたらとか、天皇がなんたらなんて話をしたいわけじゃない。「トイレの神様がいる」世界に住んでいる事がいいたい。「妊婦さんがトイレ掃除をよくするときれいな子が生まれる」とさえ言われる。全くの迷信かもしれないし、男性も手伝う方がいいと思うけど、とにかくそういう世界に住んでいる。それを研究するのには、そのような世界を想像するのではなく、実際に体感できる日本がちょうどいい。

Piss Christという、キリストにおしっこをかけた作品が物議を醸したそうだけど、そもそもトイレや排泄を100%ただの汚物として片付けるからそうなるのだと思う。まぁ、とはいえ汚いと思うし、汚してくる感じはわかる。

だけど、便器さえもある意味神の宿る場所。

あらゆるものに神が宿ると思えば、神でないものはない。自分が便器を見るのは、神が神を見ているという不思議な状況になる。僕はそこまで言いたいのではない。体感として便器はあるとして、そこに宿る魂のようなものに目を向けてみたい。

とは言え、日本で太鼓の音に精霊が宿るとか言い始めると、新興宗教のように聞こえる。特にオウム真理教の事件の影響は大きいと思う。僕は人間を操れる事や超能力と、人間性は別だと思っている。麻原彰晃がすごくても、人間性とは関係ない。

同じように、思考ですごい事と、作品に魂が宿る事は別だと思う。お祓いした便器と普通の便器を並べるとかすれば、何か感じるのか。なんて、それは想像でいい。僕は気を習ったけど、開業するつもりはない。一人ひとりに施術したり集団で遠隔治療なんてこともできるのかもしれないけど、限界がある。だから絵にしたい。僕が死んでも一人一人と向き合える。

量子力学の世界では、人間が観察するまで箱の中の猫が生きているか死んでいるかわからないという「シュレディンガーの猫」という思考実験があるそう。僕は、猫の生死をわかるようにしたいのではなくて、猫が生きていると思った上で作りたい。身体的な動作を持って霊的なものを作る事に興味がある。猫が生きているかどうか不安になったときに、鬱になるように思う。それはとても大事な神話の崩壊だと思う。人間の思考実験の都合で、空想の猫を殺さないで欲しい。

魂の宿ったものを作るときに、魂込める風のうぉぉっていう動作は重要ではないと思う。ただ何かの力のパイプであればいいという姿勢を思う。その姿勢はシャーマン世界に通じる。もうすでに書いてあると知る。過去や先祖に想いを向ければ、導かれている未来に通じる、のか。どこへ行こうか知っているのはすでに僕ではないのかもしれない。

僕はお酒もタバコも薬もやらない。文章で酔える事があるから面白い。いのっちの電話は、テレフォンシャーマニズムかな。すごいなぁ。現実は夢で、僕らは夢を作る事ができるって言っていたのは、バシャール。書いてて酔って来た。読んでみて気持ちよく酔えてたら嬉しい。

自分自身が何をどこまでできているかは知らない。美術館に行くのも、道中で疲れてしまうので苦手だし、見ることのできない絵が多い。コンセプトを読んでいる間に疲れる。でも、思考も忘れたくはない。感覚だけ勢いに乗せられた時、ナチスのようになるんじゃないかと思うと怖いから勉強したい。シャーマンの力も悪用できるだろうけど、必ず自分に返ってくると思う。勝手に自滅すればいい。僕は振り向かず、一歩前へ行こう。

絵として3次元のものを2次元に置き換えるとき、デッサンが狂っているとかは二の次の話だと思う。そもそも物体は平面じゃない。4次元というか、時間を超える力に興味がある。神話の欠乏には、3次元のイリュージョンではなく、思考でもなく、死んでも誰かと対峙できる気になれるものがいいのだろうか。こんな事書いてしまって、アート好きの目に触れる事は怖い。僕には大した知識はない。

食うために、お金を稼がなければと焦って、画家。芸術家と名乗った。半年に一度はホームページを大改造する。それは、分類できない事が発生しまくっているから。絵を描くし版画もするし、写真もやる。コンピューターを学び、建築を学び、太鼓を打って、気を学び、会社を経営して、海外に出かけて、教育者から暴力を受けて、家族の問題に頭を悩ませて、お金にも困って、鬱にもなった。絵だけを描いている人と思われたくもないし、まとめ上げるのが便利なのはわかる。だけど、お金も静電気みたい塊ならそういう心配は無用かもしれない。

絵描きだから絵描きらしくしないといけない。そんな姿勢の中には僕が思う絵描きはいない。まるで「粋」という半纏を着るような無粋な事なんじゃないかと思う。アーティストであるかどうかわからないくらいでいいのかもしれない。自分が思う振動に、お腹の心を向けていたい。

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光っているものと詩の話

詩のような言葉の塊をよく書く。そしてすぐに消す。電話をしながらの落書きのような集中力で書く。言葉になる前の言葉なのかと思う。「あたなには才能があるから、文章で生きていける」と言われた事があるけど、それにしたって特に詩なんて、恥ずかしい。黒歴史になる。でも、もう鬱鬱で黒黒してきたから、どうでもいいとも思う。

統一しない、消さないと思えばそれでいい。お見苦しかったら申し訳ないけれど、今度公開しようかどうか考えている。日本語を使う人は1億人以上いるんだから、もしかしたら1人くらい響くかもしれない。そう言うものを生み出し続けていていいならば、謎の自信がある。絵も同じ。

イメージの中で、いろんな色にものすごく光っている塊があって、昔はそれが怖かった。押し潰されるかと思ったけど、それはどうやら仲良くできるものなのかもしれないと思った。そしてそれが何かということを長らく考えていたけれど、今だによくわからない。今は「善いもの」と思うことにしている。

仏に会ったら、仏を殺せというけれど、謎の光る塊との向き合い方で詩は生きると思う。そう思いたいだけ。

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日課と犬の散歩

坂口恭平さんの「まとまらない人」を読んで、言葉を書くことを日課にしようとして数日経った。僕の中で完全にブームになっている。面白いくらいに書けた。そこで早速、試しに1日休んでみた。言葉の感覚が少しずれた。ネガティブな批判というより愚痴に近い文章になった。まとまらないのは元からだけど、うまく出せない。一本の線の上に乗らない。編めない。時間がかかる。

楽器の演奏は、1日休むと3日戻るという。言葉は、体の中で腐ってしまうのかもしれない。発酵になればいいけれど、そういう感じではない。ほんの少し見えかけていた線が、解けていく。創作のことを、排便や自慰に例えたりする人もいる。作らない、言わない事による便秘とでも言えばいいのかな。あまり好きではな例えではないので、僕は呼吸と考える方が好きだ。空気を吸い過ぎ。生々しさが減っただけでどっちにしろ危ない。

だけど、吸う事と吐き出すことのバランスが、僕にとって今なぜ言葉や絵なのかと思う。もちろん人によるだろうけど、ネットで情報に触れる機会が増えた事と関係があるのかなと考える。情報を吸って、情報を吐き出す。必要なものは残って、不要なものは吐く。だけど、吐いたのは不要なものではなくて、必要なものを取り込んで変化した状態での息。腐っていない息がいい。あかちゃんのようないい匂いのうんち。

日課について思うのは、犬の日課。いつもの散歩のルートがあって、それが少しずつ変化する。雨の日はこっちに向かうとか。今日はこの木でおしこっしないとか。行く道もだんだん変わるし、食べ物の好みも変わる。知らず知らずに変化してて、そうえば変わってる事に後から気が付く。亡くなってしまったお犬様は、体と会話していたんだろうな。

なんとなくの日課と変化。気にし過ぎて身動きが取れなくなっても困る。まだバランスが掴めていないけど、日課は犬の散歩のようなものだと思うと続けられる気がしてきた。万歩計の数字を残す感じでいいのかもしれない。

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近所のチャップリン

最近は地方でも色々なイベントが増えた。地域活性化と言っている。僕はどこに住んでいてもその街のために頑張ろうとは思わない。頑張らせられる地域は住みにくいから。住みにくい地域は活性化しない。自分から町のために手伝いたい!と思うことに関わるのはもちろん楽しい。僕もイベントの企画をしたりしたけど企画の側は大変だけど楽しい。そして、ついてこれない人は本当に辛い。なんとなくの忖度すべき強制力が働く感じが困る。アート関係の舞台なんかでそうだったりすると特に苦しい。イベントに誘われる時は、人としては好きだし、できれば協力したい気持ちとの間で揺れる。すごくペースが乱れてしまう。市のため、県のため、やがてお国のために繋がっていくようで怖いからでもある。小さな行動でさえ、お国のために心を殺す事が怖い。だから違うことをする。すぐに消耗してしまう僕は、ちゃんと休むことを大事に思う。

戦争を知らないからだと言われるかもしれないけど、元特攻隊員の方は「なぜ死ぬ覚悟で戦争に反対しなかったか」と後悔の念を語られたそうだ(記事をはこちら)。お国のために死ぬ事が良い事だと教育され、死なない死なせないために、死ぬ覚悟が必要だった時代。 生きるも死ぬも、死。 戦争は知らないけど後悔の念を抱く方の声が、まだかろうじて生きて届く時代。地域のために頑張らないことで、国のために死なない人が増えないで欲しいと思うのは考えすぎかもしれないけど、自殺の問題に繋がるようですごく気になってしまう。

若いからだと馬鹿にされるかもしれない。先日、初対面のお坊さんに「君達はクソ世代だ」と言われたので、「あなたたちはその世代を作った大グソ世代ですね」と返した。 行く道、来た道を馬鹿にしない大人でありたい。と、友達のおばあちゃんの話を聞いて思った。

「私は祖国を愛している。だが祖国を愛せと言われたら、遠慮なく祖国から出て行く。」と、チャーリー・チャップリンが言っていたそう。この感覚がとてもしっくりする。

僕はイベントに参加するのが苦手なので、ほとんど行かない。見ると何かしたくなるけど、その場ではできない。だから、イベントは出店者のためのものなのではないかとさえ思う。お祭りで太鼓を打つのはできるし、屋台に立つのも少しはできる。ちゃんと打ち合わせから準備からというのが、本当に苦手になってしまった。

イベントでその時その場が盛り上がって、成功して何人来ても、出店者が儲けたと言っても、駐車場整備の大学生の気持ちが気になる。彼らはボランティアで、お店は商売。だから、大学生の日曜日が収入になって、大人たちが打ち上げに行くように見える。しかも、イベント運営で忙しいから、ありがとうと言っておしまい。駐車場整備では一緒に入らない限り、地域の人と繋がりができるようなことはほとんどないと思う。それなら、アルバイトとして行った方がいい。そりゃあ仲良くなれるのが一番いいけど、使い捨てにされる事にも気をつけた方がいいと思う。主催者も悪気はないだけに、言いづらい。楽しめていなそうな人が気持ちよく参加できるにはどういう形態があるのか気になってしまう。

イベントは、関係者同士の顔合わせの意味があるのかもしれない。一緒に作業をすると仲良くなる。それでも川はドブのように汚いし、湧水は農薬で飲めない。そういうネガティブなことを言わずに、ポジティブに!と言って問題を見ない振り。日本は高齢化の先進国。年上を立てる。僕らが年金を欲しいと思う頃にまだその文化は残っているのだろうか。若者から、お前らが問題を放置したからだと笑われるような大人にならないように気をつけたい。

笑点の円楽さんや歌丸さんが引退する姿がカッコ良かった。テレビだから本当の事は知らないけど、居るだけで嬉しい。若者が、近所で自分から立てたくなる年配者に出会えたら幸運な事かもしれない。