こんにちは、絵描きの宮内博史です。
11月の終わりに、中学の同級生と「朋友(中国語で友達)」というタイトルの展覧会を開きました。ところが、展覧会開催の少し前から首相の発言によって日中関係が悪化してしまいました。
このままでは友達を友達と言えなくなってしまうような気がします。僕はこの超個人的な出発点から、日本政治の構造的な脆弱性についてしつこく考え続けています。絵描きの本分ではないですが、理想のイメージを描くという意味では芸術作品のつもりです。
考えるにあたり、内田樹さんの「日本習合論」などにパワーを頂きました。
僕は現在の日中関係の悪化は、天皇制の「自己溶解力」が遠因だと考えています。なので、民主主義と伝統文化のハイブリット型の「民主尊皇道」という構えが役立つのではないかと考えました。こんなこと誰も言っていないので意味不明かと思いますが、読んでいただけたら嬉しいです。
直接的な事の発端は、高市首相の「台湾有事は日本の存立危機」という旨の発言にあります。1972年の日中国交正常化の際、日本は「台湾を中国の一部であることを尊重する」と言っています。中国が水面下で何をしていようとも、国際社会上は無防備に表立って大義を差し出した事になるはずです。首相が公式に発言を撤回しない限り、中国は「歴史に逆行した」と言っていつまでも表立って制裁を行うことができます。
そして、この発言は首相のアドリブであり、現実に中国と隣接している台湾側からの要請によるものではありません。台湾の曖昧な独自性を国内政治に利用した、極めて無礼なものだと思います。
日本が大好きで、どれほど素晴らしいと自負していても、国(政治)は批判の対象です。腐敗した政治家は、自分に批判の矛先が向かないよう外部に敵を作るように誘導します。それでは根本解決はしないので、やがて経済が立ち行かなくなり、鬱憤が爆発したら戦争に向かってしまいます。国民感情が衰退を認めることができない国では、歴史上よくある光景だと思います。
日本では、政治が腐敗・暴走して民主制が壊れても、国が安定して続いていくように感じます。民主主義国で政治家が疑惑を速やかに晴らさない場合、国民は生活と直結する危機感を得るはずなのに不思議とそうなりません。なぜかと考える時、天皇の存在の力を無視するのは不自然だと思います。心の拠り所である君主制が無傷であることで、国が脈々と続いていくと感じられる。その力のポジティブな面だけでなく、ネガティブな面にも心を配る必要があると思います。
他国から現在の日本を見た時に、戦前の軍国主義に回帰していると見做されてもおかしくないはずです。例え内閣支持率100%でも国は強くなりませんし、最終的な責任者を決めるのは国内法ではなく戦勝国です。万が一今後戦争するとして、再び天皇に危険が及ばないような大義が設定されているでしょうか。敗戦時にも自分の意思で支持したと言い続ける事ができるでしょうか。真っ当な批判さえ反日的だと断罪する姿勢は、天皇を身代わりにする構造の上に成り立つのだと思います。天皇を身代わりに、子や孫に辱めを与える覚悟を持てる「愛国者」というのは言葉が矛盾しています。本来最も不敬とされる行為のはずです。
ステレオタイプな右派は天皇を信仰するし、左派は天皇は無力とし、国民は積極的には議論しません。議論のエアポケットになっていて、天皇が無防備に晒されたまま誰も責任を取ろうとしません。国民が無自覚でいる限り、天皇制の「自己溶解力」が働いてしまうと思います。加速する反知性主義の力の源泉ではないかと考えています。
僕は、雰囲気に飲まれた無謀な戦争を繰り返さない事が、戦争犠牲者への供養だと思います。「犠牲者に心を向けること」と「民主的な議論を守ること」は、本来二つで一つのはずです。すると、腐敗政治は墓荒らしによる愛国パフォーマンスということになるので、死者への冒涜にさえ通じると思います。
「責任を曖昧にする構造」と「雰囲気で支持する国民」、そこに「好戦的なアドリブ政治」が加わるとブレーキが効きません。戦争世代が引退されるほどに、さらに大きな波となって同型の問題が再帰するはずです。だから、構造の脆弱性を解析して雰囲気を打開すれば、政治は襟を正すしかなくなるはずです。
かつて、三島由紀夫は学生運動に向かって「君たちが天皇と一言言えば、私は君たちと手をつないで喜んで死ぬ」と言いました。今なおこの一言は冷凍保存されたままになっているように思います。
僕は、戦後80年間「日本の民主主義は、天皇制の消化不良状態にある」と考えます。ここに三島由紀夫の言葉を強制解凍すると、「天皇を守るために、民主主義を守る」と言えるのではないかと思います。天皇は法制度上無力でありながら、国民感情として尊重する。最初に「民主尊皇道」と言ったのはそういう意味です。
この理想論は、現代の民主制を基礎としながら日本の伝統文化にも多く接続できると思っています。例えば、明治時代に生きた新渡戸稲造の武士道精神にも繋がります。闇雲に武器を振り回すのではなく、僕が言いたいのは「不戦の武士道」です。それは、刀を置いて躙口から平等の世界に入る、茶道にも通じます。戦国時代に茶道が発達したのは、しっかりと刀を置く事こそが戦いの姿勢に通じているという知恵でしょう。
仮に敵国が存在するなら、できる限り水面下で相手を衰弱させるべきです。もしも攻撃するとしても正当防衛という大義の下で、研ぎ澄ませた居合の一撃で仕留めた方が旨みが多い。むしろ、合気道のように戦う前から勝っている状況を作る事ができれば、そもそも戦う必要がありません。相手が万全な状態で大義を差し出せてしまうのは、腐敗政治の側の足元が万全な状態でない証拠です。
こうして考えると、戦後に断絶されていた大和魂は不戦の道の上に生き返ります。世界で戦争が起きる中でも、本来日本は別の道を示す灯台になれるポテンシャルがあるはずです。圧倒的なアドバンテージを持つ歴史と文化を眠らせたまま、力と力で国を守ろうとするのは効率が悪いです。国民の知性と創造性を総動員させる方が、武力とアドリブよりは余程マシです。
僕は絵描きなので、みんなが迷っている時に「あっちだ!」と未来を示すのが役割だと思っています。この理想論は、具体的な政策以前のイメージの共有が目的なので、次の80年後に向けて書いています。同時に、人の心の内側の恥ずかしい愛国心を枯らす即効性も期待して書いています。日本の民主主義が自由であるための、伝統芸能でいう「型」のつもりです。腐敗の芽が育ちにくく、過去・現在・未来を繋ぐ豊かな土壌についての話なのです。
今、生活と政治と天皇はバラバラになっていると思います。「政治に声が届かず無力感を味わわされる生活」「利権を漁る腐敗政治」「遠い存在の天皇」。これらがもう少しだけ繋がり、生活と政治と心の拠り所の接点が増えるイメージです。
フランスの「自由・平等・博愛」のように、日本では「同調せず、自立して、尊重する」。「あなたのことは好きだけど、あなたの意見には反対する」という会話に、愛情と礼節がある感じです。
自分の国を特別に愛しているとしても、それは、世界に対して独自の役割があると考える「ナショナリズム」なのか、他国は劣っていて排除すべきと考える「ファシズム」なのか。その微妙な線引きを間違えたことがある日本だからこそ、同じ轍を踏んではいけない。天皇を危険に晒し、原爆という血の雨を乗り越えたはずなのに、また同じ道に進もうとしているように見えます。だからこそ、国際的・歴史的にナショナリズムの良い面を掬い上げる、そういう発想が必要だと思いました。
机上の空論かもしれませんが、誰も言わないので書きました。専門家ではないので、論理的におかしい場合は申し訳ないです。展覧会を政治に汚されたと感じた自閉症の絵描きが過集中状態で考えて、辿り着いた理想論でした。
世界が平和でありますように。
