台湾とも中国とも朋友でいたい

展覧会の中国語のタイトルと国際情勢が被ってしまった都合で、思う事を書きました。
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連日朝4時まで作っていた文章のうちの一つです。

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台湾とも中国とも朋友でいたい

朋友(ポンヨー)とは中国語で「友達」という意味です。台湾にご縁ができたマナに、行ってらっしゃいの気持ちも込めて展覧会のタイトルに決めました。一緒に展覧会をしようと決まったのが7月です。最初は「元銚子四中美術部二人展」にしようと言ったけど却下されてしまい、このタイトルは9月中に決まりました。

それから今日までのほんの短い間に、首相の発言によって「台湾」や「中国」という言葉の意味が違ってしまったかのように思います。そのことについて、このタイトルを選んだ以上は黙っているのもむず痒いので、タイトルの変更も考えました。でも、それでは少数派の意見はかき消えてしまうと思い、ここに僕の個人的な意見を書かせていただきます。多数派の方に対しては、「あなたの意見には反対するけど、人としては好きですよ」という気持ちがしっかりあることを予めお伝えしておきます。

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11月7日、高市首相が「台湾有事は日本の存立危機」だと言いました。

台湾は日本と仲が良く、民主的で文化も独自です。でも、無理に独立しても中国には勝てません。どれほどの悲願であろうとも軽々しく独立を企てることは、中国に自ら吸収されにいくようなものです。100年、200年とできるだけ長く曖昧な状態にしておく。その間に、世界に認められるくらいまで文化を限界まで独自化させる方が合理的なはずです。

1972年の日中国交正常化の際、日本は「台湾を中国の一部であることを尊重する」と言いました。台湾の有事に日本が参戦すると言うのは、一方的に国交を破り、宣戦布告しているかのようです。例え断交で済んだとしても、日本の経済は行き詰まります。すると暮らしが立ち行かなくなるので、その不満が外に向けて爆発すれば、戦争へ向かってしまうと思います。このことを、多くの日本人が勇ましいと思っていることが不思議でなりません。水面下でのやり取りがどうあろうとも、無防備なことに表立って大義を差し出してしまいました。

戦前、日本はアメリカに勝てないという研究があったのに、それを無視して敗戦しました。今、アメリカでさえ通常兵器では中国に勝てないという研究が幾つもあります。日本と中国が戦争をして、勝てると思う方が不自然です。負けたら首相は戦犯だし、煽っている人は戦犯の片棒を担いだということになります。でも、それだけじゃ済まないと思います。

民主主義は、一方の意見が行き詰まっても、もう一方の意見によってバックアップができます。僕のような少数派の反対意見を聞く必要があるので、常にストレスが溜まります。「ストレスは知っているけど、戦争は知らない世代」が僕たちです。愛国心を掲げて派手でスカッとすることならば、腐敗していても嘘でもいい。今はそのくらいの需要があります。政治家の無責任な振る舞いによって議論の土台が傷つき、民主主義が壊れても構わない。例え民主制が壊れても、日本には天皇という君主制があるので心の拠り所は無傷です。愛国心の渇望や苛立ちが満たされることが、地道な議論よりも大事だと多くの人が思っている。だからこそ、日本国内では「勇ましさ」そのものが歓迎され、真実かどうかを検証しているうちに熱が冷めて忘れられてしまいます。でも、国際社会ではその成功体験は通用しません。

先の大戦後、天皇はGHQの前で「戦争遂行に対する全責任を負う」と死を覚悟で言ったはずです。一国民として、これこそが皇室の大和魂なのだと思います。万が一このまま戦争に向かうならば、傷ついた民主制ではなく君主制的愛国心が高まる論調に一気に向かうはずです。軍国主義に傾く時、これはただの暴力とは違うのだとする言い訳が必要です。その時に、日本人の心を統合できるのは皇室しかありません。つまり敗戦したならば、民主制上の政治家では負いきれない責任が発生し、皇室の安寧が脅かされます。例え国民の総意であると言い訳しても、敗戦国の象徴の存続が許されるとは思えません。中途半端で恥ずかしい愛国心こそが、再び天皇を危険に晒します。勝ち筋のない相手への威勢の良い挑発は、国体そのものを首相の身代わりにする事でしか成り立ちません。甚大なリスクに対して無自覚で、あまりにも無責任です。

つまり心の拠り所である皇室を守るためにも、民主主義という制度を守る必要がある。だから、政治家の腐敗や嘘に激怒し「不戦の戦いを続けること」が、国民の大和魂だと僕は思います。

台湾とも中国とも朋友でいたいのです。

2025年11月21日 宮内博史