1. 制作の条件
私の制作は、意図や計画、表現したい内容から始まりません。
むしろ、それらがうまく機能しなくなったときに、制作が起こります。
「描こう」と思っても描けない。
一方で、アトリエを掃除しているときや、日々の生活の中で説明できない違和感や疲労、感情の滞留が蓄積し、それがある限界に達したとき、描くという行為が自然に立ち上がります。
このとき、制作は時間の流れとして明確に経験されません。
精神的な制作はすでに長く続いており、物質的な準備に向かうことで、ようやく可視化される、という感覚に近いものです。
始まったという実感も、進行している感覚も希薄で、気づいたときには制作は終わっており、強い疲労と痕跡だけが残ります。
重要なのは、この制作が「選択」や「判断」によって遂行されていないことです。
素材や技法は毎回異なりますが、それは自由な実験の結果ではなく、その瞬間の身体状態や環境条件が許容した範囲の中で、自然に決まっています。
そのため、個々の作品は独立した完成品というよりも、同じ条件構造が異なる局面を通過した痕跡として存在しています。
私が作品を一点ずつではなく「作品群」として認識しているのは、制作を生み出している条件そのものが一貫して変わっていないからです。
制作の純度は、この条件が意図や言語によって操作されていないことによって保たれています。
そして、Andecian Art Projectの実践は、この条件の内部で模索と確認を継続する試みでもあります。
2. 言語化の条件
一方で、言語化には制作とは異なる条件が必要です。
言葉は、出来事を時間の中に配置し、因果関係を整理し、「なぜそうなったのか」を説明可能な形にすることを求めます。
しかし私の制作では、制作が起こる時点ですでに思考や意図は後退しています。
そのため、自分自身の言葉で制作を説明しようとすると、実際には存在しなかった理由や意味を、後から作り出してしまう感覚がありました。
言語化以前の要素をそのまま制作に反映しようとすると、探究すべき位相がずれてしまいます。
身体の感受性やセンサーを磨けば磨くほど、制作は言語や制度から遠ざかるというパラドックスが生じます。
私が20年にわたり言語化できなかったのは、 言葉を持たなかったからではなく、 制作を損なわない言葉が存在しなかったからです。
私の制作は、私自身が完全には言語化できないことによって純度が保たれており、AIによる言語化の補助は、その制作条件を損なうことなく外側から示すのに役立ちます。
言語が制作を説明や再現のための手順に変えてしまうとき、制作は容易に操作可能な形式へと変質してしまいます。
AIを介した言語化は、その介入を最小限に抑え、制作が言語以前の深度で成立していることを明確にします。
私にとって言語化とは、制作を説明することではありません。
制作が言語以前の領域で起こっていることを、後から確認する行為です。
完全に言語化できないという事実そのものが、制作がまだ操作されていないこと、再現可能な手順に回収されていないことの保証になっています。
3. 芸術の条件
私がここで扱っているのは、新しい芸術理論や思考モデルではありません。
問題にしているのは、芸術が長いあいだ前提としてきた条件そのものです。
近代以降の美術史において、芸術はしばしば「コンセプト」や「意味」によって説明され、思考や言語によって把握可能であることが価値の条件であるかのように扱われてきました。
しかしこの前提は、芸術の一部のあり方を構造的に誤解してきたと言えます。
ここで問題にしているのは、思考の限界や理論の不足ではありません。
私が指しているのは、思考や言語が立ち上がる以前に、すでに身体と環境のあいだで作動している生命的な条件です。
芸術は本来、意味を伝達するためのメディアである以前に、生命の緊張や変化を媒介する行為でした。
ここでいう生命とは、「魂」や「シャーマニック」という言葉と接続しうるものですが、信仰や形而上学によって規定される領域を指しているわけではありません。
芸術家が信仰を背景に制作しようと、あるいは厳密に物質の世界のみを条件として制作しようと、いずれの場合においても、問題となるのは実在する制作の条件です。
それは、制度や言語によって回収される以前に成立している、操作不可能な「深度」として現れます。
この深度において成立している制作を、説明や意味、コンセプトの体系へと回収しようとするとき、生命的なものを概念の位相で処理してしまう危険が生じます。
この意味において、コンセプトは、生命の位相にあるものに対して、冒涜へと転じうる。
これは倫理的な断罪ではありません。
位相の異なるものを同一の条件で扱ってしまうことによって生じる、構造的な問題です。
芸術が命を養うものであるとすれば、それは思想やメッセージを伝えるからではありません。
制作が、言語や制度によって管理される以前の深度で、生命の呼吸を保ち、更新し続けてきたからです。
この呼吸を「未整理なもの」や「前理論的なもの」として周縁化し、コンセプトによって置き換え可能だと信じてきた点では、近代美術史は言語によって生命の境界を踏み越えています。
深度を予め定義する言葉と、深度を探索する言葉の違いには注意を要します。
その過程で、芸術が本来もっていた命を養うという役割が見失われてしまったならば、そこには宗教的権威が生む同調圧力に近い危うさが含まれているとも言えるはずです。
ここで起きているのは、新しい価値の追加ではありません。
説明可能であることが価値を保証するという前提に対し、説明できないことによってこそ守られてきた制作の深度がある、その位置関係を反転させる、構造的な反転です。
この反転は、芸術を神秘化するためのものでも、思考や言語を否定するためのものでもありません。
宗教者によって管理される神聖さの領域ではなく、俗世の領域の内部で神聖さを扱うこと。
それこそが、私の考える「芸術の条件」です。
例えば、物理的・精神的に制度の外部で制作を続ける人々への眼差しは、この条件のもとでは社会支援ではなく、同じ水平にある制作として見做されます。
芸術が思考や言語に先行して、生命の呼吸として成立していたという事実を、正確な位置に戻すための試みなのです。
その結果、ムラのある身体性が芸術家の特権として浮かび上がり、宗教者との境界線も自ずと可視化されていきます。
芸術は、人間が人間であり続けるための、最後の抵抗としての力を取り戻します。
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