腑に落ちない政治、国防としての祭礼

1. 腑に落ちない政治

最近の目立つ政治家(高市、小泉、神谷など)の言葉は、自分には全然響かない。表情も嘘に見えるし、言葉に心がないように感じる。どうしても腑に落ちない。

彼らは、そうなのか!とつい膝を打つような言葉を次々に使いこなす。一時的に頭の中が心地よく感じられるし、もっともらしいことを言っているのに体は全く反応しない。それどころか脳と体がバラバラになる感じがする。災害時の首相の緊急会見は、言葉が次々にこぼれ落ちていくように感じられた。この「腑に落ちない」「感じる」ということをについて、単なる感覚・感想で終わらせずに言語化したいと思う。

なぜなら、この奇妙な感覚が怖いものだと思うからだ。心身を分離される危機感を覚える。暗に「これからみなさんの心身を分離させてマインドコントロールをします」と言っているような、宗教的な気味の悪ささえ感じる。宗教的熱狂によって敗戦した歴史を持つ国で、この違和感を放置してはいけない。どうにかして「腑に落ちない」という感覚に論理的な防壁を築きたい。

これは単なる政治批判ではなく、民主主義の可能性についての話でもある。「言葉になる前の違和感にも、政治的価値があるのではないか」「言語的同意だけでなく、身体的抵抗権も積極的に議論されるべきではないか」そのような意味も含めて読んでいただけたらありがたい。

2.新興宗教と伝統宗教

ここで、一般的な新興宗教についての話をする。新興宗教は、その時代のあらゆる悩みに対して的確に回答することができる。日常的なこと、超常的なこと、森羅万象について回答する。言語と思考に対して働きかけ、儀式を行い、超常世界と接続された感覚を得ることで人々は熱狂する。そうでなければ急速に信者を獲得することはできない。

しかし、時間が経てば世の中の価値観は変化し、自然と教祖の教えは古くなる。時間が経てばカリスマ指導者は亡くなり、直接的な記憶を持つ人もいなくなる。その時に、社会との摩擦が増えて攻撃的になるか、信者を失って縮小するか、社会と馴染むかの3つの道があるだろう。教祖の宗教的遺産が時代の変化に耐えられれば、社会と馴染む方向に向かうかもしれない。社会に対して攻撃的になれば、カルトと呼ばれるかもしれない。

一方で伝統宗教について考える。ここでいう伝統宗教は、単純に宗教としての歴史が長く(目安として最低300年)、時代の変化に耐えた実績を持つことを意味する。伝統宗教の祭礼は、その意味が言葉で共有されていなかったりする。意味ではなく、祭りだからと言って祭りが継続されている地域は多い。日常に深く根付いた証拠とも言えるが、祭りだからの一言では言語的に納得できない人たちは取り残されてしまいやすい。非常に大雑把ではあるが、言語的に救いを与えるのが新興宗教の強みと言え、感覚的に腑に落ちるのは伝統宗教の強みと言えるだろう。

思考での理解や論破によって反論を封じるのは、新興宗教の得意分野に違いない。あらゆる問題に正確に回答する相手に対して、即座に反論できないことで正当性を得たように錯覚させられてしまう。人は心から言葉を話そうとする時、言葉は詰まったり遅くなったりすることが少なくない。対話ではなく、一方的なマシンガントークによって、言語化が一歩遅れるという身体的な不一致感はなかったことにされてしまう。それは霊的攻撃とも言える。

政治家も同じで、彼らが捲し立てるロジックは完璧そうに思えるが、その口調、視線、表情などはあまりにも酷い。それは、新興宗教的な「完璧な言語的回答」の技法を高度に洗練させたものにさえ思える。反論の隙を言語レベルではほとんど与えないのに、身体レベルでは絶望的な空虚感がある。言語的情報と身体的情報の乖離があまりにも大きいのは異常である。


3.教育と身体

残念なことに、このような種類の気色の悪さに対して、日本人は鈍感であれと教育されている。教育課程では、歴史的に農民を身体的に軍人化してきた整列や体育座りを強制される。政治家の視点から随分と強い言葉で言うならば、国民は飼い慣らされた犬とさえ言えるだろう。超長期的な自発的奴隷化の実験として、成功した例とも言えるだろう。

民主主義教育が不十分なまま、体育の先生の怒鳴り声ばかりが心の奥深くに刻み込まれている。「身体的情報に対する違和感を無視せよ」という軍隊命令が、日常的な正しさとして善意の元で教育される。高校を卒業する頃には、正当に権威に抗う意思さえも刈り取られている。政治的な争いそのものを悪として得る平穏な生活は、独裁体制を理想とすることで成り立つ。このグロテスクで極端な政治思想を無自覚のうちに内面化した人々が、日本人のマジョリティと言える。そして学校には、学校制度に適応できた大人しかいないのが普通だ。もちろん疑問を持ち、抗い続ける人もいるので、そのような人に向けて書いている。

「人間をなんとも思わない思想、命をなんとも思わない思想。バカ、お前が戦場に行けよ。」これは私が聞いた戦争世代の生の言葉だ。私たちは、無数の死者の元に平和を享受している。戦争も核兵器も自分とは無縁だと言える人は、とても幸福で身勝手なお花畑な世界に生きているのだろう。憲法は、権威が暴走しないための檻であり、それは善意の花畑の中で錆びてきている。


4.カルトによる存立危機

高市首相は、反社会的カルト(組織的に違法な献金勧誘を行っていたと裁判所に認定され、解散命令が確定した)である統一教会との関係を清算しきれず、「知らなかった」などと説明した。話のプロである政治家が、思考のプロとの組織的な関係について、何も知らない訳がない。政治家が外国宗教の国内動向を知らないなど、思想的侵略を許可するという宣言に等しい。

物理的な戦争を放棄した国で、国の精神的な存立理由の根幹に無関心を示すなど、国防の放棄である。元首相が殺害されてもなお、発話と思考のプロ同士の関係が解明されないなどあり得ない。日本の全ての政治家は、この問題に消極的であってはならない。自国の存立危機事態を許す首相というのは、立場が矛盾している。知らないの一言で終わらせるならば、それは国の精神的な独立性を自ら明け渡すことに等しく、国防上の観点からも辞職に値する。

関係解消に消極的な姿勢は、マインドコントロールの技術を政治的話術に転用させている疑いを強める一方である。ましてや首相自身が統一教会の教えを無自覚に披露する中で、素人個人が対等な議論を行うのは無理がある。つまり国民は「徹底した調査がなされない限り、絶対に腑に落ちることはない」と永久に言うことができる。政治と反社会的カルト宗教との関係は、国民にとっては呪いに他ならない。関係性が透明化され廃絶されることで国民は解呪され、政治家は長年の呪いを一身に引き受ける必要がある。

5.記号と生命の逆転

そんな政治家の薄っぺらい「愛国」という言葉に酔ってしまう人は、彼らの言葉ではなく行動を見るべきだ。彼らにとって愛国は単なる記号であって、集票ツール(犬の餌)でしかない。「行動が伴わなくても、記号が守られれば納得するだろう」と、国民は舐められているということだ。

実際には、国旗とICCに対する温度差を見ればわかる。記号的な反対者を締め出そうとする割に、血の通う国民を率先して守る気概はない。同じく「官邸のゴキブリや奈良の鹿(記号化された生物)」と「行政職員の自死や沖縄での米兵による性犯罪」も格好の例だ。「記号」と「生命」に対して、熱量の配分が真逆になるという異常が日常化している。熊本の避難所ではSNS禁止なのに、首相のPVにのみ利用された。彼らの甘い言葉や作り笑顔は、私には全く腑に落ちないハリボテに見える。

強い顔、強い言葉、強い口調であればリーダーシップを感じ、どれほど心が空虚でも構わない。そのような歪んだマインドセットを正しいと刷り込むことで、強い者に立ち向かう勇気は挫かれ、弱い者イジメは加速する。自分が弱い者の側に立つ可能性を考慮しなければ楽だが、構造的にイジメの対象は徐々に広がる。単に弱い者を叩くことを強さと見せかける以上、次々に強いガソリンが必要になるからだ。

排外主義で他者を抑圧する興奮は、脳内麻薬のような中毒性があるだろう。愛国心を満たす天命を得たのだと、必死に麻薬を求めさせる構造なのだ。権力批判を悪として教育され、人間になる勇気を奪われた以上、犬がさらに下級の犬を作り出すというファンタジーしか道はない。抑圧され続けた感情の発露なのだから同情するが、終始一貫して権力者の思う壺にしかならない。構造は少々複雑だが、超常世界の宗教的技術を計量に入れると割と単純な仕組みだ。

これが、支持者の気分の良さと、反対者の気分の悪さの原因だと思う。世俗の世界を調整するための一時的な職分である政治家が、信仰領域での禁忌を犯している。自分がイジメられる番は来ないという儚い信仰の元でしか支持することはできない。反対者は民主的手続き以上に、超常的世界を人為的に操作された種類の気分の悪さを覚えながら立ち向かうという非対称な構造になっている。

民主主義は時代の変化と価値観の行き詰まりに対して、バックアップの力を備えている。政治的にどんなに素晴らしい施策であろうと、一定の反対者はいる。権力者には、真正面から反対と言うことができるのが民主主義だ。これからは、思考だけでなく丹田や心の声に嘘をつかなければ良い。人間である国民は個々人の体感を持っているのだから、理論のみで納得する必要はない。体感的に腑に落ちないことについて、政治家に対していつまでもいつまでも言葉を求めて続けて良い。相手が総理大臣であろうと「腑に落ちないので反対する」と言って良い。政治家が国民の生命に対して、心からの全力の祝福を送っていると感じるまで求め続けて良い。

この腐敗は、政治家生命にとって延々と乾かない生傷であり、ぐずぐずと引きずって人間としての心を腐らせながら進むべき道のはずだ。国民ではなく、本人が自ら選んだ道だ。体感を失った言語の暴走による信仰は、仏教でいう魔境へ近づく。新興宗教のような政治も、同種の破滅へ近づくだろう。死んだ言葉を振り撒く彼らの言葉は、絶対に腑に落ちない。私は「政治家個人が、魔境を開いた責任を負いますように」と神仏に祈り、個人的に背負わないよう心がけている。

6.国防としての祭礼

歴史的に日本は長らく小国であったのだから、元に戻るだけだ。そのような時代の逆風が吹いていても、国民を守れば国の結束はどこまでも強くなる。真っ先に記号を守ろうとする人は、皮肉にも懸命に衰退を加速させる。意中の相手に性交渉したいと直接的に言うのは、全然ロマンチックではない。腑に落ちない愛国心も同じで、強制されると一気に興醒めする。国のために子供を作ろうとなどと言う人もいるが、生命は記号への奉仕物ではない。その台詞は愛を信じられない人だけが言える。麻薬中毒も記号中毒も、孤独が原因だと思うとやるせない。現在の政治環境が新興宗教的ならば、伝統宗教の力を見直すのはどうだろうか。例えば、各地で伝統的な祭礼の由来を丁寧に言語化するなど、その裾野を広くすることはできるだろう。世界は人間の思考でできてはいないし、もうすぐ単純な思考力はAIに追い抜かれる。そうなれば、非合理的なカオスに触れる伝統的祭礼の価値は見直されるだろう。これは、地域おこしのための世俗的な集客イベントではないし、規模の大小は関係ない。どれほど質素であろうとも、超常的な儀礼の一部であるという意識を共有することが肝要である。

例えば祭りの角付けは、普段は山や神社にいる神が神輿に乗り、お祓いを受けた人たちが地域ごとの作法で太鼓を鳴らして家々を回る。地域の政治的思惑ではなく、神輿を担ぐ当人たちに「神の使い」のような意識があり、またそれを言語化できているだろうか。言語化が大切だとしても、このような場においては言語化のプロである来賓の政治家の言葉には本質的な価値はない。彼らは世俗から出ない約束でその場に立っているのだから、政治的記号の拡大は控える方が良い。宗教者や民間の代表者の心を感じる場になるのが理想である。

現代のスピリチュアル運動の中でも体感に基づいたものは、神聖さの元に言語化した伝統的祭礼との相性が良いだろう。言語に基づく宗教的熱狂ではなく、体感に基づく個々人の神聖さを尊重し、それを押し付け合わない事だ。そうすれば先の敗戦の道は辿らない。家族間の心理的境界線や、個人と集団の心理的境界線の破れが、現代のスピリチュアル運動の推進力ともなっていることを思うと大間違いとは言えないはずだ。世代を超えた戦争の心理的傷跡として、心理的境界線の破れが起きるように思えるため、私は体感に基づく超感覚を笑わない。

また、ここで共産主義についても考えたい。カール・マルクスによる共産主義は、宗教をアヘンとみなすが、現実には旧ソ連でさえ葬儀を行なっていた。無神論ですら神聖さへの渇望からは逃れられなかった。世俗的に腑に落ちない共産主義の限界はここにあるだろう。ただし、現代日本の与党にとって、日本共産党は毒である。つまり、政治的には非常に効果的だと言うことだ。霊性を手放すことが毒となるのだから、与党の霊性がいかに歪であるかがわかる。しかし、彼らは基本的に伝統宗教と接続する回路を持たない。私は、マルクスが身体的に腑に落ちる形で、伝統宗教を相まって翻訳される可能性に期待している。

ここまでを総合すると、「明治期以降の世俗的な社会において、神聖なものへの作法が丁寧に継承されてこなかったのではないか」という問いに行き当たる。ある人は体感のないスピリチュアル講座の回遊魚となり、ある人は祭りに熱中し、ある人は記号を愛せとを叫び、ある人は神聖さはないという信仰を語る。しかし、スピリチュアル講座には歴史がなく、祭りには言葉がない。記号には身体がなく、無神論には葬儀がない。欠けているものの形は違えど、全員心の奥底で求めているものは、「人生は神聖だと信じたい」という渇望ではないだろうか。

能の「羽衣」で、天女は「疑いは人間にあり」と言う。この素朴で力強い種類の言葉と心が、地域の祭礼に宿るだけで随分と違う景色が見えるだろう。祭りに関わる、イカついけど実はシャイなおじさんたちにはくすぐったいかもしれない。しかし、毎年の祭りで会う名前も知らない人に次の大役を任せるような感性は、名刺交換や肩書きだけでは成り立たない。シャイさの中に、神聖さの継承に関わる感性が宿っている。太鼓の音や路上での飲食も、国防を担っているのだ。彼らにとっては「ごちゃごちゃうるせぇな」と言う内容だが、なんの権威もない私にだってその言葉が暖かいかどうかくらいはわかる。ビートたけしさんの「馬鹿野郎」が心地よいのと同じだ。

私は、未来の戦犯の片棒を担ぐつもりはない。
太鼓を打って、愛する人に花を贈って死にたい。