恐怖の記録

 

あいちトリエンナーレの問題をテーマに版画作品を作った。タイトルは「恐怖の記録」。展示再開を歓迎しているけれど、僕はこんなもの作りたくなかった。怖い。だけど、自分の怖さの内側に政治や宗教の匂いがするので書く。今まさに香港で起きている事は、対岸の火事ではなく身に迫る思いだ。もしも補助金が再び交付されるようになろうと、記録として残す。

例えば北朝鮮が戦争に負けて民主主義になり、言論の自由が保障されたとする。国民が愛してやまないので金王朝が残るとする。国内で表現として金親子の写真を焼く事は、民主主義国家である証拠になる。それを脅迫したり、国が大声で暴力に対する姿勢を示さないことは気味が悪い。恥ずかしい。

国家や霊性の権威に敬意を持つ事と、それを暴力で強制する事は違う。暴力と繋がり、実際に子供が焼かれて天皇陛下万歳と言うしかない時代があった。今の天皇制のあり方については、賛否両論、個人個人が気持ちを寄せるものだ。介入されるはずのないプライベートな宗教的要素が、国の一部となっている。立憲制と君主制の矛盾する両輪があって、それについて積極的に議論しない事は、既に君主制による暴力となり得る。大人の委縮が、ただでさえ世界一位の自殺率である子供達の世代に影響するように思えてならない。

皇室の血が良くて、漢民族は劣っていると思うなら、白人至上主義やナチスに加担するのと同じだ。芸術には、差別や暴力に対して暴力なく戦う力がある。想像したくもないものを突きつけて、こんなものの何が芸術かと言われる。どのような価値観に依存しているのか、弱点や無自覚の部分を揺さぶる。絵の上手い下手とか色が綺麗とか、反日とか、そういう話ではない。国境も宗教も人種も飛び越えて、世界が美しいかどうかだ。