[ English ]
現代美術において、知覚や認知はしばしば標準化された主体を前提として扱われてきた。作品は、均質な理解や解釈を想定する制度や枠組みの中で読まれることが多い。しかしその前提が揺らぐとき、表現の形式だけでなく、制作・発表・流通が成立する条件そのものが再考を迫られる。
ニューロダイバーシティ(神経多様性)は、認知の違いを欠如や逸脱としてではなく、複数の構造のあり方として捉える視点を提供する。この概念は社会的・倫理的文脈で語られることが多いが、制作、発表、流通を含む美術実践全体の条件を再考するための方法論としても読み替えることができる。
私の制作は、ニューロダイバーシティを主題として表象することを目的としていない。むしろ、制作行為そのものがどのような条件のもとで成立しているのかを問い直す実践として位置づけられる。当事者である私にとって、それは特別な表現上の選択というよりも、日常生活を送るなかで生じる不便さや摩擦に対応しながら、ごく普通に制作を継続するための現実的な態度である。
私の日常のなかには、反復や強いこだわり、感覚過敏による選択肢の消去や急激な認知の攪乱、拡張された身体感覚、意図しないハイパーフォーカスといった状態が常に存在している。これらは、表現のために意図的に選び取られた要素ではない。制作を可能にするための調整や操作として、生活の過程にすでに組み込まれているものである。作品は、そうした「内面的なスケッチ」が、描くという行為を通して外部に現れたものに他ならない。
その結果として、作品には反復、消去、時間のずれ、痕跡といった要素が現れる。しかしこれらは、制作の場で意図的に操作される表現技法ではない。生活のなかで内包されていた感覚や時間の構造が、ハイパーフォーカス状態における短時間の制作を通して立ち上がってくるものである。そのため、制作の後には、しばしば強い疲労として身体に反動が現れる。こうした身体的な消耗と回復のサイクルもまた、私の実践を構成する不可避なプロセスである。
この姿勢は、時間性や身体性、素材との関係を重視してきたポスト・ミニマルやプロセス・アートの実践と共鳴する部分を持つ。しかし本制作は、それらの歴史的枠組みを反復するものではない。認知や身体の差異そのものが、概念的参照ではなく、実践を構成する前提条件として組み込まれている点において異なっている。
私にとって制作行為は、より広い実践領域の一部に過ぎない。住居、制作環境、物理的な発表空間は、既存の制度を前提とするのではなく、DIYによって自ら構築してきた。これは自律性を誇示するためではなく、落ち着いた住環境や自然に近い環境の方が制作に適しているという、身体的・感覚的な必要性から生じた選択である。都市型の高密度なアート環境や物理的なアートフェアは、私にとっては持続的な制作を困難にする閉鎖的な空間として知覚される。この認知の差は、優劣を示すものではなく、相互理解の前提条件として有用である。
DIYによる環境構築は、制作と生活を同時に成立させるための条件設計であり、環境を調整する行為そのものが制作の延長となっている。一方で、身体的実践には明確な限界も存在する。移動や長時間の滞在、対面での発表形式は、制作を支える条件と摩擦を生じさせることが多い。
そのため、オンラインでの発表や流通は重要な役割を果たしている。オンラインは物理的発表の代替ではなく、身体的実践を拡張するための回路として機能する。距離や規模、時間といった物理的制約を超え、制作のエネルギーを過度に消耗させることなく、他者との接続を可能にする。
こうした条件に基づく実践の延長として、私はギャラリーおよびレジデンスの場を自ら運営してきた。そこでは国際的に活動するアーティストだけでなく、都市やアカデミーの制度に接続される以前、あるいはその外部に位置づけられがちな声も拾い上げようとしている。作家として名指される以前の表現であっても、それらは確かに持続している実践として扱われる。
この取り組みの目的は、評価体系を置き換えることではない。むしろ、都市や制度によって周縁化されがちな声が消失せずに立ち上がるための条件を整えることにある。地域において芸術の風を送ることはできたが、その実践は都市のアカデミー的文脈とは直接的には接続されていない。しかしその距離は欠落ではなく、異なる時間軸や交換の回路が立ち上がるための生産的な隔たりとして捉えられる。
このように、作品制作は私の実践の中心ではあるが、他の行為より特権的な位置を占めるものではない。ギャラリーづくり、レジデンス運営、プロジェクト、日常生活は、すべて同列に置かれている。それらは、世界との関係を保ち続けるための持続的な態度として結びついている。
私は、日常的に振る舞っているだけで社会との摩擦を感じてきた。そのため、制作に限らず、あらゆる手段を用いて世界と接続し続ける必要があった。これは、社会のなかで生き延びるために不可欠な態度である。
社会の中で、断絶された記号として存在する物質の周縁に、微かな関係性や揺らぎを見出し、それらが有機的に接続されていることを渇望する。私はこれを「祈り」と呼ぶ。それは、宗教的信仰や儀礼を指すものではない。世俗的な物質や行為に対して、異なる強度の注意と時間を与え続けること――そのような生活者としての態度そのものを、神聖な芸術実践として捉えている。
本実践は差異について語るのではなく、認知的・身体的・環境的な差異を、実際に機能する条件として扱う。そのことによって、不便さや不適合を抱えながら表現に向かう無数の人々の声が、拡張され、他者と接続されるための回路を開くことを目指している。
注記
本テキストは、私自身の実践を通して得られた感覚や経験をもとに、専門的・批評的な文脈に接続するための言語化を、AIの補助によって行ったものである。私にとっての通常の生活や制作は、自らの言葉だけでは記述することが困難であり、AIを介することで初めて言語化が可能となった。その事実自体が、私の経験と既存の言語的枠組みとのあいだに存在する隔たりの深さを示している。
本実践の具体的な展開については、ギャラリープロジェクトの記録を参照されたい。
https://andecian.com
