「芸術が始まる場所」の投稿では、呼吸は理論に先行する。という趣旨のことを書きました。
これは、言葉は不要という意味ではなく、ギリギリで呼吸が先行するという話です。
理論の外を言語で指し示すというのは、自分でも不粋だと思います。
「粋」と書いてある法被を着るくらい、本末転倒な不粋さだと思います。
しかし、現在の芸術環境が理論で圧迫されている以上、私は喜んで「不粋」の法被を着ます。
そしてこの姿勢は、民主主義についてチャーチルが語った次の言葉に通じます。
「民主主義は最悪の政治形態である。ただし、これまでに試みられた他のすべての政治形態を除けば」
つまり、私の意図はこうです。
「呼吸を言語化するのは最悪である。ただし、芸術が言語に侵食されている場合を除けば」
芸術は、民主主義の多数決の原理によって消されてしまう声を可視化します。
また、「権威は芸術を恐れ、芸術を必要とする」という言葉もあります。
芸術は常識の基盤を揺さぶるので、権威は支持基盤を失うことに通じるので恐れる。
無視すれば感覚が更新されず、権威は時代に置き去りにされる。
その意味で作品鑑賞のための空間は、民主主義の盲点に通じると思います。
例えば、戦国時代に発達した茶道では、刀を置いて平等の世界に入りました。
これは逆説的に戦の機微に通じていたはずです。
芸術との対峙は、民主主義の機微に通じると思います。
数によってかき消された、対立意見のバックアップとして機能するはずです。
正しさを決めるのではなく、違いを保存する。
民主主義のために制作するのではなく、ただ独自の呼吸であることでその役割を果たします。
一方で、オンラインでの展覧会はどこまで行ってもカタログに近いものです。
これは冷凍された情報の断片であり、鑑賞者の身体と作品という物質が対峙することでしか解凍できないはずです。
これは欠陥ではなく、媒体の性質です。
例え実践が極小であっても、作品はカタログを通して流通する可能性があります。
作品を手に入れた人の呼吸にわずかでも影響するならば、声は静かに拡大されます。
民主主義と経済と芸術論が拮抗する隙間に、一人一人の身体と呼吸があります。
いずれの場に対しても、呼吸は一歩先にある。
そして表現形態は、絵画に限らず、言葉、音楽、ダンスなど様々です。
私は言葉を軽んじているわけではありません。
理論の限界があろうとも、それに先立つ呼吸が存在するということです。
私自身、鬱で脳が停止を命じても、心臓は動き、呼吸を続けることを希望とすることで生き延びました。
生命への祝福がなければ、制度は存在理由を失います。
少なくとも私はそう信じています。
生きることを希望と呼ぶ衝動は、社会制度に対して例外として作用する、普通の芸術の源泉だと思います。
