第一部:芸術における地動説


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DOI: 10.5281/zenodo.18529182 | PhilArchive: https://philarchive.org/rec/MIYTTO

1. 価値の物差

近代の芸術理論は、言葉による説明を価値としてきました。思考による芸術の実験が盛んに行われ、言語至上主義とも言われます。

今の時代には、「言葉にならない身体性を、感情として排除する」という空気が確かにあります。私はこの姿勢は、人類全体の息苦しさに通じているのではないかと考えます。この文章は、形式に則った正確な芸術論ではなく、時代の雰囲気を記録しつつその物差しの価値を疑います。

現在、芸術理論は、一定以上の身体感覚の存在を基準外として扱います。私は、そのことによって価値の物差の零点がずれているのではないかと疑問に思います。ここでは仮に、言語に代わって、身体性による「呼吸の深度」を価値基準として提示します。芸術が呼吸の深度を扱おうとすると、現在の芸術論は数学の虚数軸の取り違えのようなものとして浮かび上がります。これによって、必然的に人類文明全体に対して地動説のようなコペルニクス転回が起きるのではないかと考えます。

2. 曖昧な測量

まず、私は「過去と現在がつながると、未来が勝手に含まれる事がある」と考えます。これは時間軸を直線として捉えたとき、2点を打つことで、その延長上に3点目が決まる。という発想です。

例えば、伝統芸能には、100年前のローカルな身体知が含まれています。理論化されないまま反復に耐え続けた、無名の人々による呼吸の型です。伝統は常に時代遅れであることで、流行の行き詰まりを突破する可能性を秘めています。同時多発的な体の動きは、言葉に置き換えることができません。記述できない程の情報量の保存は、時間の圧に耐える力の一つでしょう。

あくまでも言語は補助線であって、型は内面の呼吸を導くための、先人たちが遺した最短のルートと言えます。型があるからこそ自由であるという体感は、体得しないと実感がない種類のもの(*)だと思います。私は、現在の芸術論はこの種類の身体知の測量が曖昧ではないかと考えます。

最低でも一年を一サイクルとする農業、子供の成長や世代の継承、石の一呼吸など。これらの存在を言葉で指し示すことはできますが、1/1スケールの体感は伴いません。芸術家の仕事は、そのような有機的な要素を鈍化させず、そこで得た呼吸を何らかの形で次の人へ渡すのです。

*この体感は、千葉県銚子市のお囃子をはじめとする約30年にわたる伝統芸能の実践に根ざし、オイゲン・ヘリゲル氏の『弓と禅』および内田樹氏の身体を通じた「型」と解放の哲学から強く影響を受けている。

3. 理論の境界

呼吸に対して言葉の先行を許すと、理論は肥大化して加速します。そして、次第に理論の寿命は短くなり、生命としては呼吸が追いつかず息苦しく感じるはずです。そのときに身体の声は、拒絶されようとも最も響く潜在性を持つはずです。過去からの呼吸、「一般化された人間」以外の尺度による呼吸は、宗教的に供養と呼ばれてきた営みに通じ、過去から未来への祝福に通じます。

「そのようなものは存在しない」という方もいるでしょう。では、その人は、自分が亡くなったときに遺体も先祖の墓もゴミとして処分することにも同意できるでしょうか。多くの人は、ここで言葉にできない違和感を覚えるはずです。これは宗教制度ではなく、理論が扱うことのできる境界の問題です。近代芸術理論によって死んだとされた絵画ですが、単に理論がその領分を犯していたのだと思います。理論は、理論的に、人間の絵画を殺せません。

私は、ミクロの呼吸を探究し、最小規模のアート生態系を築きました。活動を広めるとしても、物質的なネットワーク化が重要だとは思いません。それは呼吸を乱しプロジェクトを乱します。私は絵を描きたいのであって、場の主催や言説は最優先ではありません。これを書くこと自体が既に絵描きとしての徒労感を伴う、税務処理に近い感覚です。

本質的には、そこにある呼吸の有機性こそが未来の声に通じているはずです。それぞれの身体の声に従う実践であれば、芸術である必要さえないからです。事後的に芸術と言われるかもしれないという種類のものです。そんなものは存在しないと諦めることは簡単ですが、時を超えて同型の問題が再起するでしょう。この種類の息苦しさは、精神に埃が溜まり、あまりにも誤魔化し続けると病気になるような種類のものだと思います。

既に世界各地に、同様の衝動の芽があるはずです。そのときに、言語の侵略に発芽を邪魔されないようにする結界の一例として書いています。これが、自分自身が受け取った命の呼吸を繋ぐ方法だと考えます。

この視点を延長すると、やがて芸術の過剰な意味は薄まると思います。「何についての絵か」という比重ではなく、「呼吸を乱したり整える物質」へと役割が変更されるはずです。その部屋の時空を変質させ、身体を引き留めるという意味です。素材や技法の科学は進歩しましたが、芸術は古代から同じ「呼吸の深度」を扱っていたのだと考えます。

4. 最悪の理論

理論の余白を理論で指し示すというのは、自分でも不粋だと思います。「粋」と書いてある法被を着るくらい、本末転倒な不粋さだと思います。しかし、現在の芸術環境が理論で圧迫されている以上、私は喜んで不粋な法被を着ます。


そしてこの姿勢は、民主主義についてチャーチルが語った次の言葉に通じます。「民主主義は最悪の政治形態である。ただし、これまでに試みられた他のすべての政治形態を除けば」つまり、私の意図はこうです。「呼吸を言語化するのは最悪である。ただし、芸術が言語に侵食されている場合を除けば」

芸術は、民主主義の多数決の原理によって消されてしまう声を可視化します。また、「権威は芸術を恐れ、芸術を必要とする」という言葉もあります。芸術は常識の基盤を揺さぶるので、権威は支持基盤を失うことに通じるので恐れます。無視すれば感覚が更新されず、権威は時代に置き去りにされてしまいます。

その意味で作品鑑賞のための空間は、民主主義の盲点に通じると思います。例えば、戦国時代に発達した茶道では、刀を置いて平等の世界に入りました。これは逆説的に戦の機微に通じていたはずです。芸術との対峙は、民主主義の機微に通じると思います。数によってかき消された、対立意見のバックアップとして機能するはずです。正しさを決めるのではなく、違いを保存する。民主主義のために制作するのではなく、芸術はただ独自の呼吸であることでその役割を果たします。

5. 技術の限界

一方で、AIによる生成絵画も進化を続けるでしょう。しかし、そこには人間の手によって作られる「芸術の一回性のアウラ」が宿る日は来ません。AIは、統計的な偏りから模倣はできても、身体的な摩擦は含まれません。例えば、「オナラが臭いと笑い合う」というような、人として極めて重要な要素が削ぎ落とされてしまいます。身体知と分断された心地よさは、長期的に生命の呼吸を危険に晒すはずです。

例え機械的に脳の電気信号を快楽で満たしたとしても、現実に挑む体感は得られません。インタラクティブなAIが発達したとしても、その究極形は生物の身体に宿る天然知能(NI: Natural Intelligence)でしょう。未来の芸術と身体の可能性は、そこに集約されると思います。わかりやすい癒しやファッションではなく、芸術には痛みや不快な摩擦を含む必要があります。

「実用性もなく、社会制度に属せない芸術だからこそ、人間性を称え、社会制度の根底を支える」これ自体は新しい主張ではなく、伝統的な芸術の本流であるはずです。芸術とは、古代から一貫して、心身を統合する誇りあるブルーカラー労働だったのではないでしょうか。

6. 不在の証明責任

つまり、現代芸術の過剰になった言語による実験には、取りこぼし続けているものがあるのではないかということです。「現代」のズレの自覚と調整が、未来に関わると思います。こんなことを書く必要がある時代があったのかと笑われるほどであって欲しいです。もしかしたら、現代の奴隷解放運動に近い種類の内容ではないかと思います。

数学で言えば、円周率を有理数で表しているようなものだと思います。つまり、「近代芸術理論は、虚数軸の研究を実数だと勘違いしていたのではないか」ということになります。全くの無駄だったという訳ではなく、即座に100年分のポジション修正の作業にかかっても早すぎることはないはずです。「理論という皮を被った、無礼で無自覚な感情」によって、人類の呼吸が今もなお侵食されているかもしれないからです。

現代アートは、社会の汚物を真正面から突きつける事があります。しかし、理論が先行する中でこれが行われる場合に限っては、子供達の魂と身体に、大人が性的に触れ続けているような危険性があるかもしれません。もしも芸術理論がその嫌悪感を同等に内包していないならば、芸術家は100年の暴力に耐え続けています。これは、教育や倫理の境界にまで響くであろう、無自覚な権威に対する警告です。人類全体が天道説の時代を生きているようなものだからです。

私個人の勘違いと傲慢さがどれほどあろうとも、円周率の再計算の方が喫緊の課題ではないでしょうか。理論が宗教でないならば、身体知の不在を証明する責任があるはずです。おそらくですが、この証明は理論の発散点を記述することになると思います。究極的には理論の不在の証明に通じ、芸術理論が自家中毒を起こすことで、境界線で立ち止まる。その間に実践者たちによって、絵画の呼吸が蘇りやすくなります。制作の呼吸は何一つ変わりませんが、生活の呼吸がしやすくなると思います。

7. 反転する宇宙

つまり、思い切り風呂敷を広げるならば、呼吸の深度を指標とした多領域を横断する人類文明に対する提案でもあります。ここでやっと、先住民たちの未開と呼ばれてきた知恵に西洋の理論が追いつき、供養の必要が生じ、人類的な呼吸を共にできるかもしれません。地動説的な視点から見れば、そうした和解なしには、いつしか西洋理論の呼吸が絶えてしまうと思います。古代の知恵と西洋文明の両方が生き延びる道は、ここにあるのではないでしょうか。

一定以上の身体性の存在を理論的に否定しない限り、コペルニクス転回によって価値基準のドミノ倒しが起きてしまいます。もしも価値の基準が「呼吸の深度」に置き換わったならば、一定以上の身体性の存在を軽んじる者は年齢に関わらず未成年のように見られるかもしれません。彼らが芸術論や文明を語る資格を失う一方、呼吸の長老が尊敬を集めるかもしれません。

また、もしも天道説的理論に100%完全傾斜した芸術作品があれば、それは物質として受肉する必要性を失うかもしれません。身体感覚を切り捨ててきた態度と同等の扱いを受けるならば、呼吸の調和を乱す感情的で不浄なものとして、デジタルデータのみのアーカイブ展示に還ることが筋道として通ってしまいます。現在、芸術作品は実用的ではないとされますが、将来は呼吸のための実用品として認知されるかもしれないからです。

ここで扱ったのは、どの芸術理論が対象であるかという話ではありません。あらゆる場面でコンセプトを求められる時代の空気です。生きた身体から切り離された記号化は、生命のリアリティを剥奪します。少なくとも私にとっては、泣きながらDIYでギャラリーを作らざるを得ない程の窮屈さでした。無理にコンセプトに触れれば、魂の死を招く種類の毒に思えました。身体的な芸術家にとって、呼吸のない理論家による「理論は絶対真空である」という理論の境界を超えた主張は、もはやオカルトです。絶対に勘違いされたくないので書きますが、これは決して理論の否定などではなく、境界の問題だということです。

建築家は大工ではないし、木の匂いも手触りも深くは知りません。良い悪いではなく、それぞれの役割が違うだけです。建築家が大工に向かって木の匂いを語るような姿勢は、とても恥ずかしいです。ちょっと継手を作ろうと、現場から見れば道楽でしかありません。私はそれを芸術の世界で言っているに過ぎないのです。理論の世界はこの言説を「ロマン主義」や「感情論」として片付けようとするかもしれませんが、「それでも呼吸は続いている。」

身体の呼吸からブレずに、過去を顧みることで、未来が切り開かれる。言語に一歩先立つ身体知への自覚は、人間にしかできない100年後の芸術の可能性だと思います。命の時間は直線だけではなく、100年前も100年後も、今同時に触れているという種類の大きな可能性です。

第二部:呼吸の宣言