前の記事「芸術・民主主義・経済」
ここまで書いてきた、現代の芸術環境と呼吸についての時間軸を伸ばし、100年後の芸術について考えます。
するとこれは、芸術における地動説に通じると思います。
強烈な比喩を使いますが、理論によって奪われてきた呼吸を取り戻すために書きます。
形式に則った正確な芸術論ではなく、この時代の実感を個人が記録するものです。
私は「過去と現在がつながると、未来が勝手に含まれる事がある」と考えます。
これは時間軸を直線として捉えたとき、2点を打つことで、その延長上に3点目が決まる。という発想です。
例えば、伝統芸能には、100年前のローカルな身体知が含まれています。
理論化されないまま反復に耐え続けた、無名の人々による呼吸の型です。
伝統は常に時代遅れであることで、流行の行き詰まりを突破する可能性を秘めています。
同時多発的な体の動きは、言葉に置き換えることができません。
記述できない程の情報量の保存は、時間の圧に耐える力の一つでしょう。
あくまでも言語は補助線であって、型は内面の呼吸を導くための、先人たちが遺した最短のルートと言えます。
型があるからこそ自由であるという体感は、体得しないと実感がない種類のもの(※)だと思います。
最低でも一年を一サイクルとする農業、子供の成長や世代の継承、石の一呼吸など。
これらの存在を言葉で指し示すことはできますが、1/1スケールの体感は伴いません。
芸術家の仕事は、そのような有機的な要素を鈍化させず、境界を見つめるところが出発点のように思います。
そこで得た呼吸を、何らかの形で次の人へ渡すのです。
呼吸に対して言葉の先行を許すと、理論は肥大化して加速します。
そして、次第に理論の寿命は短くなり、生命としては呼吸が追いつかず息苦しく感じると思います。
そのときに身体の声は、拒絶されようとも最も響く潜在性を持つはずです。
過去からの呼吸、「一般化された人間」以外の尺度による呼吸は、宗教的に供養と呼ばれてきた営みに通じ、過去から未来への祝福に通じます。
「そのようなものは存在しない」という方もいるでしょう。
では、その人は、自分が亡くなったときに遺体も先祖の墓もゴミとして処分することにも同意できるでしょうか。
多くの人は、ここで言葉にできない違和感を覚えるはずです。
これは宗教制度ではなく、理論が扱うことのできる境界の問題です。
理論が領分を犯さない限り、理論によって死んだとされた絵画は、まだまだ広大に広がっているということです。
理論は、理論的に、人間の絵画を殺せません。
私の実践はその一つの事例であり、最小規模の生態系です。
活動を広めるとしても、物質的なネットワーク化が重要だとは思いません。
それぞれの身体の声に従う実践であれば、芸術である必要さえないからです。
事後的に芸術と言われるかもしれないという種類のものです。
また、私の場合は拡大のために呼吸を乱すと場を把握できなくなり、プロジェクト自体が混乱すると復旧に苦労します。
私は絵を描きたいのであって、場の主催や言説は最優先ではありません。
能力のある人に取り組んでほしい種類のものであり、これを書くこと自体が既に絵描きとしての徒労感を伴います。
制作ではなく、税務処理に近い感覚です。
本質的には、そこにある呼吸の有機性こそが未来の声に通じているはずです。
ただそれだけの事が、芸術の領域で認知されていない時代の記録の一つです。
そんなものは存在しないと諦めることは簡単ですが、時を超えて同型の問題が再起するでしょう。
この種類の息苦しさは、精神に埃が溜まり、あまりにも誤魔化し続けると病気になるような種類のものだと思います。
私は、個人的な心理的トラウマと向き合い再帰性の問題に取り組んでみたり、宙ぶらりんの「空」に耐え続けた記録を残します。
直接的な言及ではなく、型による身体的な自由さによってです。
既に世界各地に、同様の衝動の芽があるはずです。
そのときに、言語の侵略に発芽を邪魔されないようにする結界の一例として書いています。
これが、自分自身が受け取った命の呼吸を繋ぐ方法だと考えます。
この視点を延長すると、やがて絵画は主張や問いや意味が薄まると思います。
「何についての絵か」という比重が薄まり、「呼吸を乱したり整える物質」へと役割が変更される。
その部屋の時空を変質させ、身体を引き留めるという意味です。
一方で、AIによる生成絵画も進化を続けるでしょう。
しかし、そこには人間の手によって作られる「芸術の一回性のアウラ」が宿る日は来ません。
AIは、統計的な偏りから模倣はできても、身体的な摩擦は含まれません。
例えば、「オナラが臭いと笑い合う」というような、人として極めて重要な要素が削ぎ落とされてしまいます。
身体知と分断された心地よさは、長期的に生命の呼吸を危険に晒すはずです。
例え機械的に脳の電気信号を快楽で満たしたとしても、現実に挑む体感は得られません。
未来の芸術と身体の可能性は、そこに集約されると思います。
わかりやすい癒しやファッションではなく、痛みや不快な摩擦を含めた、心身を統合する誇りあるブルーカラー労働だと思います。
「実用性もなく、社会制度に属せない芸術だからこそ、人間性を称え、社会制度の根底を支える」
この主張はなんら新しいものではなく、伝統的で未来的な芸術の本流であるはずです。
つまり、現代芸術の過剰になった言語による実験が、取りこぼし続けているものだということです。
「現代」のズレの自覚と調整が、未来に関わると思うのでこうして書いています。
こんなことを書く必要がある時代があったのかと笑われるほどであって欲しいです。
もしかしたら、現代の奴隷解放運動に近い種類の内容ではないかと思います。
数学で言えば、円周率を有理数で表しているようなものです。
つまり、「近代芸術理論は、虚数軸の研究を実数だと勘違いしていたのではないか」ということになります。
全くの無駄だったという訳ではなく、即座に100年分のポジション修正の作業にかかっても早すぎることはないはずです。
「理論という皮を被った、無礼で無自覚な感情」によって、人類の呼吸が今もなお侵食されているかもしれません。
私個人の勘違いと傲慢さがどれほどあろうとも、円周率の再計算の方が喫緊の課題ではないでしょうか。
理論が宗教ではないならば、証明の責任があるはずです。
おそらくですが、この証明は理論の発散点を記述することになると思います。
理論が境界線で立ち止まらざるを得なくなれば、その間に実践者たちによって絵画の息吹が蘇りやすくなります。
現代アートは、社会の汚物を真正面から突きつける事があります。
しかし、理論が先行する中でこれが行われる場合に限っては、子供達の魂と身体に、大人が性的に触れ続けているような危険性があるかもしれません。
もしも理論がその嫌悪感を同等に内包していないならば、芸術家は100年の暴力に耐え続けています。
これは、教育や倫理の境界にまで響くであろう、無自覚な権威に対する警告です。
人類全体が天道説の時代を生きているようなものだからです。
建築家は大工ではないし、木の匂いも手触りも深くは知りません。
良い悪いではなく、それぞれの役割が違うだけです。
建築家が大工に向かって木の匂いを語るような姿勢は、とても恥ずかしいです。
ちょっと継手を作ろうと、現場から見れば道楽でしかありません。
私はそれを芸術の世界で言っているに過ぎません。
現在の芸術作品は実用的ではないとされますが、将来は呼吸のための実用品として認知されるかもしれません。
身体の呼吸からブレずに、過去を顧みることで、未来が切り開かれる。
言語に一歩先立つ身体知への自覚は、人間にしかできない100年後の芸術の可能性だと思います。
命の時間は直線だけではなく、1000年前とも今日の午後とも同時に触れているという種類の、大きな可能性です。
以上、一人の絵描きが、この時代にキャンバスの前に立つための文章でした。
地動説の元、芸術家の死後もその呼吸が響く事を祈ります。
※参照:「弓と禅」オイゲン・ヘリゲル
